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総合

「東海道五十三次 白須賀 逸当」「東海道五十三次 二川 猫石」

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画題: 「東海道五十三次 白須賀 逸当」「東海道五十三次 二川 猫石」

絵師: 三代目豊国

版型:大判/錦絵

落款印章: 豊国画(年玉枠)

改印: 巳二改

出版年月日: 安政4年(1857)2月

出版地: 江戸

配役:【逸当】・・・初代 河原崎 権十朗、【猫石】・・・四代目 市川 小団次


題材

  • 猫騒動物

人形浄瑠璃・歌舞伎狂言の一系統。お家騒動にからめて怪猫のたたりを描くものが多い。古くは元文5(1740)年4月大阪・竹本座初演、文耕堂・千前軒・三好松洛ら合作の人形浄瑠璃<今川本領猫魔館>があり、今川家のお家騒動に怪猫を配している。歌舞伎では文政10(1827)年6月江戸・河原崎座。4世鶴屋南北作<独道中五十三駅>が有名。十二単を着た怪猫が、行灯の油をなめる。通称<岡崎の猫>のち河竹黙阿弥が改作上演し、昭和56年3世市川猿之助も改作して復活した。また佐賀鍋島家のお家騒動に取材した<鍋島の猫>の最初の作は嘉永6(1853)年の3世瀬川如皐作<花埜嵯峨猫魔稿>であるが、佐賀藩の抗議にあい上演されなかった。別に明治13(1880)年5月東京・猿若座の河竹黙阿弥作<有松染相模浴衣>は有馬騒動に取材したもので、通称<有馬の猫>。

上記の通り、怪猫を題材とした作品は多くあるが、4代目市川小団次が主演しているという点や、慶應元年四月に天日坊、市川小団次、伊賀之助、隼人を河原崎権十郎が勤めている上、初演が安政元年8月、江戸の河原崎座で上演されているという点から、この作品の題材は<吾妻下五十三驛>であるのではないかと考えた。しかし怪猫は出てくるのだが、怪猫が十二単を着ているという描写は無い。逆に<独道中五十三驛>では十二単を着た怪猫の描写が多いことから、この絵の題材は<独道中五十三驛>であると考える。

あらすじ

  • 吾嬬下五十三驛



  • 独道中五十三驛

原作は、”亀山の仇討”を軸に、『恋女房染分手綱』、白井権八、お半・長右衛門、桑名屋徳蔵ほか歌舞伎でおなじみのキャラクターから『東海道中膝栗毛』の弥次喜多まで登場させ、東海道を順に下って五十三段返しで見せるという、南北の奇才ぶりが重要に揮われた内容である。以後、中心となる”岡崎の猫”の怪談が改訂を加えつつ再演されたが、近年、猿之助が新脚色で復活通し上演をした。以下はその時のあらすじ。丹波の国主由留木家の長男大学は、実は悪臣赤堀官太夫の子。それをしる大殿は、次男調之助に家督を譲るべく、丹波与惣兵衛に家宝の剣と印を託すが、官太夫とその息子水右衛門が、与惣兵衛を殺して二品を奪う。与惣兵衛の子与八郎は、叔父石井左内から敵討と宝物詮議を命じられ、愛人重の井姫を連れて出立。左内は大学一味に討たれ、与八郎は桑名の海中で水右衛門と渡り合うが討ち漏らす。八つ橋村のお三は、旧主由留木家のために宝剣を買うが、その代金のために獄死。娘のお松とお袖は、石井家の臣由井民部之助と別々に契って子を儲けていた。民部と出奔したお袖は、岡崎の荒れ寺で死んだはずの母と再会。実は由留木家に恨みを抱く猫の妖怪だが、剣の威徳で姿を現し、重の井姫の十二単を着て虚空に飛び去る。お松は、水右衛門の傷を治すため、江戸兵衛に惨殺されて生血を取られ、幽霊となって民部に我が子を託す。与八郎は、大井川で江戸兵衛の鉄砲に撃たれて、足を負傷するが、死後も亡霊となって箱根の瀧に打たれる重の井の祈りが通じて全快。あとは、小田原から江戸まで追いつ追われつするうちに二品も手に入り、与八郎と民部之助は、めでたく大学一味を討ち滅ぼす。

登場人物

  • 丸子猫石の精霊

お松の飼い猫が、お松の母親の死骸に憑依する。十二単を着て、鉄漿をつけた化け猫になる。さらに、古寺に住む老婆に化け、夜中に行灯の油をなめ、子年のおくらを食い殺す。中野藤助が懐中の一巻をさしつけると、化け猫はいったん猫石に変ずるが、再び老婆の姿になってお松の死骸にたちかかる。文政10(1827)年閏6月、4代目鶴屋南北作『独道中五十三驛』で、3代目尾上菊五郎が演じ、早替りと宙乗りが見せ場であった。

古井戸秀夫『歌舞伎登場人物事典』

配役

逸当・・・ 初代 河原崎 権十朗(九代目 市川 団十朗)

1838〜1903 享年66歳


幼名=三代目 河原崎長十郎、前名=初代 河原崎 権十朗、七代目 河原崎 権之助 

七代目市川団十郎(のち五代目海老蔵)の息子として江戸堺町に生まれる。初め河原崎長十朗と名乗るが、嘉永5年9月将軍家に男子が生まれ長吉朗と命名されたので<長>の字を憚って権十朗と改める。明治2年3月、市村座「蝶三升扇加賀製」に7代目河原崎権之助を襲名し初座頭となる。7年7月東京芝新堀に河原崎座を再興、「新舞台厳楠」に河原崎権之助を山崎福次郎に譲り、9代目市川団十郎を襲名、備後三郎・和田正遠・楠正成の3役を勤める。8年5月同座「花見由井幕帳」に正雪役を勤めたが、経済上の理由から河原崎座を人手に渡し、東京を逃れて上州・野洲の旅芝居に出る。9年12代目守田勘弥の引立てがあって東京にもどり、9月新富座「音響千成瓢」に勤め、これより新富座付となる。10年2月甲府三井座に半四郎・仲蔵と共に勤め、名古屋を廻り東京にもどる。11年正月新富座「児模様曽我館染」に勤め、6月新富座が新築落成してその開場式で舞台中央に勘弥・菊五郎が並び祝辞の口上を述べ、次に団十朗が口上を述べたが、東京日日新聞社長福次源一郎の作文であった。この時より座頭となる。12年6月ドイツの皇孫が来臨した新富座の「一の谷陣屋」に熊谷役、7月には同座に米国の前大統領グラントの観覧があり「後三年奥州軍記」に勤め、海外までその名が知られるようになる。13年8月名古屋より伊勢古市の地方芝居に出て再び東京に戻る。22年11月歌舞伎座が新発足、大切「六歌仙」に勤め、これより歌舞伎座付となる。36年5月歌舞伎座「春日局」にお福の方のち春日局と家康公の2役を勤めたが、健康が勝れず相州茅ヶ崎の別荘で静養する。静養中の9月13日、急性肺浸潤に尿毒症を併発して死去。お家芸を本領として、時代物・世話物に適し、立役・敵役・女方を兼ねた。風采が良く、口上・台詞もしっかりして風格があり、非常に人気が高く不出世の大役者と持て囃された。文才があり書画骨董にも長じ、社交家であった。伊藤博文は弔辞で<君は一技芸の士にあらずして社会の一偉人なり>と述べた。

猫石・・・ 四代目 市川 小団次

1812〜1866 享年55歳

市村座の火縄売高島屋栄蔵の子。新場の仲買本牧屋の丁稚であったが、役者に憧れ文政3年7代目市川団十郎(のち5代目海老蔵)の門人市川栄蔵と名乗る。4年3月江戸中村座「伊達藻模様解脱絹川」に荒獅子千松役で初舞台。5年家庭内の不和により父と共に名古屋に赴き中山楯蔵(のち2代目市川男女蔵)の紹介で3代目市川升蔵の門人3代目市川米蔵と改め松坂・伊勢古市などの子供芝居に勤める。7年京和泉式部座の子供芝居「忠臣蔵」に由良之助役、「四谷怪談」にお岩役の早替りなどに大好評。天保3年春大阪竹田座に市川米十朗と改め、のち大阪浜芝居に勤め13年秋大阪竹田座に千崎弥五郎役で出演中、腹痛のため厠に何回も通ったことから座頭の嵐瑠寛に蹴飛ばされて楽屋の梯子段から落ちる。それより病気として退座。14年座の移転による休業保障と年間給金などに対する不満から江戸を追われた前師の5代目市川海老蔵付となり11月大阪角の座「菅原伝授」にお八重と宿弥太郎の2役。弘化元年正月大阪角の芝居「けいせい石川染」に4代目市川小団次を襲名し矢田平と入江長兵衛の2役、この時不和であった5代目市川団蔵と同席し5代目市川海老蔵による周旋により仲をもどす。同年7月大阪中の芝居「契情品評林」に鹿蔵・桂之助・三八・六字なむ右衛門の4役、この時嵐瑠寛が名古屋山三役で同席し小団次は奴鹿蔵役で先年の怨みを草履に見立て述べ、これが大当となる。安政元年8月河原崎座「吾妻下五十三驛」に天日坊など7役を演じ大好評。慶応2年2月守田座に4役、3月北町奉行所に招出され編笠を付けて往来する事と申し渡される。その後、病気となり死去。小男で風采は揚がらず、音声は小さく気品が乏しかったが、怪談物の早替り・宙乗り・7変化などを得意としたので人気を博し江戸随一の立役と称され、時代物・世話物に適し、晩年は特に新作物を演じた。


『歌舞伎人名事典』日外アソシエーツ、1988年9月

台本

猫怪 これはしたり。なに怖い事がある。ありや極楽の鉦。それを聞く者は、後生がよいといふわいの。あのやうな又、殊勝な鉦の音といふは無い。コレ、まだ鉦が聞えるが、聞こえませねか。ヤ・、もう寝てかいの。ハテマア、若い者というものは

トお倉を度々揺り起す事あつて

アヽ、よく寝附きやつたの。ト合ひ方変り、行燈の方を見て

人目が無くば常々に、好めど足らぬこの山中。今宵ぞ此処で、あの油を。

トきつと思ひ入れ、この時、風の音、捨て鐘、猫の怪、寝所より、ソロゝと這ひ出し、後を窺ひ、行燈を引寄せ、その中へ顔を差入れる。その影、猫に映る。長き舌を出し、ピチャゝと油をねぶる事。お倉、何心なしに顔を出し、これを見て、「ワッ」と飛び退き、逃げんとするを、猫の怪、その裾を捕らへ、キツとなつて

そんならわが身は、見やつたの。

『日本戯曲全集 第拾壷巻』 春陽堂 昭和3年8月

場面

『吾嬬下五十三驛』では、(京)大内猫退治の場で、猫の怪を退治する場面が出てくるが、この場面では、題材の項でも述べた通り、十二単を着た猫の描写がない。

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この絵では、十二単を着た猫石の怪と、玉島逸当とが描かれている。これは弘化4年7月上演のもので、岡崎猫の場を描いたものとされている。猫石、玉島逸当双方が描かれていることから、今回の絵との関連も認められる。そういった事から、場面は四幕目岡崎宿松並木の場であると考える。


まとめ

まず、絵に描かれている白須賀と二川であるが、まず二川 猫石の場合は、多少距離はあるものの今回題材とした<独道中五十三驛>通称岡崎の猫の場面にある岡崎と同じ愛知県である事がわかる。そして白須賀であるが、この<独道中五十三驛>から派生した作品である天保6年2月市村座で上演された<梅初春五十三驛>で、白須賀十右衛門(非人宿の虚無僧、及び、古寺の猫を退治の役)とあることから、大成功を占めた<独道中五十三驛>を軸として、さまざまな改変作の中からいろいろな要素を集めた見立て絵ではないかと考える。

参考文献

『新版 歌舞伎辞典』平凡社、2011年3月。

『歌舞伎名作事典』青蛙房、1959年9月。

『歌舞伎ハンドブック』三省堂、2006年11月。

『歌舞伎登場人物事典』白水社、2006年5月。

『日本戯曲全集 第拾壷巻』 春陽堂 昭和3年8月。

『黙阿弥全集 第二十七巻』 春陽堂 大正15年12月。

文化デジタルライブラリーhttp://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/collections/view_detail_nishikie.do;jsessionid=16E977303B2E8C8DEEE451091BCB12D6?division=collections&trace=detail&istart=all&iselect=お&did=976&class=nishikie&type=title

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