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「東海道五十三次 江尻 男之助」「東海道五十三次 府中 仁木弾正」

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画題:「東海道五十三次 江尻 男之助」「東海道五十三次 府中 仁木弾正」


絵師:三代目豊国

版型:大判/錦絵

落款印章: 豊国画(年玉枠)

改印: 巳正改

配役:男之助・・・初代河原崎権十郎、仁木弾正・・・7代目市川高麗蔵

出版年月日:安政4年(1857)1月

上演場所:江戸(見立)


題材

仙台伊達家お家騒動に材を得ているが、実説を避けて時代を東山の世界に設定する。


※安政2年9月9日市村座の「木下蔭硯伊達染」にて7代目市川海老蔵が仁木弾正直則を演じている。ちなみに男之助の役にあたる松ヶ枝的之助は福助が演じている。画像はこの時の仁木を演じた市川海老蔵である。

 安政4年10月16日市村座の「伊達競阿國歌舞妓」にて9代目市川団十郎が男之助を演じている。仁木の役は彦三郎が演じている。

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出典:藤田洋編 『歌舞伎ハンドブック』 第3版 三省堂 2006年11月20日

参考:伊原敏郎 『歌舞伎年表』 第七巻 岩波書店 昭和37年3月31日

   村口一雄 『新群書類従』第四 演劇 第一書房 明治40年10月25日


あらすじ

『伽羅先代萩』

足利頼兼が遊興にふけり、そのため家中は二つに分かれて権力抗争が高まっている。足利家の正当な後継者鶴喜代は、乳人政岡に守られ、悪人の魔手を避けている。 若君毒殺をおそれて、政岡は食事をすべて手づくり。空腹の若君、相手をする政岡の子の千松。そこへ執権山名宗全の奥方栄御前が鶴喜代の見舞いに訪れ、将軍家下賜と称し、毒入りの菓子をさし出す。千松が飛び出して食べ、露見を恐れた八汐が千松を殺すが、政岡が涙も見せぬところから鶴喜代と千松をとりかえたと思い込み、陰謀を明かして、連判状を置いて帰る。一人になった政岡はわが子の死骸を抱いて慟哭する。政岡の忠義に気付いた八汐は連判状を取り返そうと切りかかるが、反対に殺される。連判状は怪しい鼠が引いて消えた。この鼠こそ仁木弾正の妖術で、床下に宿直する荒獅子男之助が見とがめ眉間を割るが、からくも逃れ去っていく。足利の問注所で鶴喜代が正統な後継と判決されてめでたく終る。

出典:藤田洋編 『歌舞伎ハンドブック』 第3版 三省堂 2006年11月20日


登場人物

荒獅子男之助…伊達騒動において幼き藩主亀千代の守り役として知られた家臣に松前八之助がおり、この人物がモデルとされる。その忠臣ぶりは浅岡とともに実録小説の中で描かれ、松前鉄之助という剛の名に変化していった。歌舞伎では、安永六(一七七七)年『伽羅先代萩』が初演されると、忠臣松ヶ枝節之助という名になり、座敷の床下で御旗を銜えて逃げる鼠に一太刀浴びせ、悪人の正体を明らかにする役柄になった。その後『伽羅先代萩』の上演方法が、浄瑠璃『伽羅先代萩』と歌舞伎『伊達競阿国戯場』の見せ場を組み合わせた形となると「床下」は浄瑠璃の内容を引きながらも、役名は足利東山に世界を移した後者の荒獅子男之助を採用するようになった。

仁木弾正…仁木弾正のモデルとなった仙台藩奉行家老だった原田甲斐宗輔(一六一九~七一)である。伊達騒動物の代表作、歌舞伎の奈河亀輔作『伽羅先代萩』は安永六(一七七七)年初演で、ここでは原田甲斐は常陸之助海存の役名で、鼠の妖術を使うのは一味の菅沼小助という役。翌年初演の初代桜田治助ほか作の『伊達競阿国戯場』は伊達騒動に累の伝説を合わせた脚本で仁木弾正左衛門の役名が使われた。


出典:古井戸秀夫 『歌舞伎登場人物事典』 白水社 2006年5月10日


配役

荒獅子男之助…(初代河原崎権十郎) (後の九代目 市川団十郎) 天保9年(1838)~明治36年9月13日(1903) 享年66歳。

7代目市川団十郎(のち5代目海老蔵)・母ための5男として江戸堺町に生まれる。兄弟に8代目団十郎・6代目高麗蔵・7代目海老蔵・猿蔵・幸蔵・8代目海老蔵がいる。うまれて7日目にして江戸木挽町河原崎座の座主6代目河原崎権之助の養子となり、舞踊・絃歌・書画・茶花などの修業をする。はじめ河原崎長十郎と名乗り、6才の天保4(1843)年5月浅草猿若町に河原崎座が移転の舞台開きに千歳役で勤める。嘉永5年9月将軍家に男子が生まれ長吉郎と命名されたので《長》の字を憚って権十郎と改める。明治元(1868)年9月、養父の河原崎権之助が自宅で強盗に切られて横死。2年3月、市村座「蝶三升扇加賀製」に7代目河原崎権之助を襲名し初座頭となる。7年7月東京芝新堀に河原崎座を再興、「新舞台巌楠」に河原崎権之助を山崎福次郎に譲り、9代目市川団十郎を襲名、備後三郎・和田正遠・楠正成の3役を勤める。お家芸を本領として、時代物・世話物に適し、立役・適役・女方を兼ねた。風采が良く、口上・台詞もしっかりしていて風格があり、非常に人気が高く不世出の大役者と持て囃された。文才があり書画骨董にも長じ、社交家であった。


仁木弾正…7代目市川海老蔵(7代目市川高麗蔵)天保4年(1833)~明治7年7月12日(1874) 享年42歳。

7代目市川団十郎(のち5代目海老蔵)の3男(母・さと)。兄に8代目市川団十郎・6代目市川高麗蔵(のちに役者を廃業)、弟に市川猿蔵・9代目市川団十郎、市川幸蔵(のちに役者を廃業)・8代目市川海老蔵、姉のます(4代目坂東蓑助の女房)がいる。初め3代目市川新之助を名乗り江戸の舞台に勤める。弘化元(1844)年6代目松本幸四郎の養子となり7代目市川高麗蔵と改めて3月江戸中村座「姿花寝鏡山」に養父とともに勤める。安政元年(1845)年8月兄の8代目市川団十郎が大坂にて自殺。6代目松本幸四郎の娘ひでを女房としたが離縁する。5年市川新升と改める。6年正月中村座「魁道中双六曽我」に3代目市川白猿を襲名、立ち役として城五郎役。その後、上方に行く。明治7(1874)年大坂より東京にもどり7代目市川海老蔵を襲名したが舞台に一度も勤めることなく死去。時代物と世話物に適し、立役として将来を期待されていた。


出典:野島寿三郎 『新訂増補歌舞伎人名事典』 日外アソシエーツ 2002年6月25日



台本

※台本が長いので、一部分を抜粋。また、小助は仁木、松枝節之助は男之助である。

花世  宝蔵に怪しき人音 駆寄て見れば多くの忍び

小柴  御殿の下屋へ逃込内 鎮守府代々のお家の御旗

撫子  大きな鼠が引銜へ いづくともなく行方知れず

白菊  早速に御注進

    〽聞て驚く沖の井 政岡

沖の井 何 鎮守府の御旗を鼠が銜へ 逃失しとは怪しき事

政岡  殊に忍びの大勢とは

沖の井 油断ならず 女中方

    〽ハツと一度に座敷の隈〱 小褄引上 沖の井が有合長刀掻い込んで 小巻も俱に奥の間を詮義せんと走り行 誠に政岡 幼君の御身危し こなたへと 守奉後ロより 覚悟せよと突かくる 身を擦り抜てしつかと留

政岡  ヤア 八汐

八汐  かういふ事も有ふかと 去ぬる振して忍び込 何もかも様子は聞た 真の鶴喜代君 仕廻て取 こつちへ渡しや

政岡  ヤア 若君を害せんとは 身の程知らぬ人面獣心 様子知つたら生けてはおかぬ

    〽我子の敵と懐剣を 抜く間もあらせず付入八汐 燭台ばつたり 真暗がり 殿様奥へといふ声を 導べに閃く白刃と白刃 危ふかりける

   ト引取り三重にて 両人(政岡 八汐)立廻りにて舞台花道の老化 共に迫り上 御殿の下屋 かけつくりにて節之助 大勢忍びと大立の見得

    〽次第也 昼夜下屋に人知れず 守護する大兵 大忠臣 取替へ忍びの大勢が邪魔する松枝打ち折れと 懸るを掴んで犬ころ投 双方より引立れど 動かぬ鉄石節之助 闇はあやなし 当るを争ひ 人礫 打付られて数多の忍び 一度に抜連 切懸るを 刀たくつて向ふ見ず 己が刀で己が首 眉間真向 脚骨背骨 切なぐられてむら〱〱 逃散こなたへ年経る鼠 御旗銜へて駆来る 眼の光リと白刃の光リ真向しやつぷり 切付れば 鼠の行衛もアラ怪しや向ふへすつくり廊下の下 姿顕はす忍びの術力

   トどろ〱にて 小助旗を銜へて 迫り上がる 御殿へ逃る妼共 上より差出す手燭の光リ

政岡  節之助殿か

節之助 政岡様

    〽詞の内に向ふを急度

政岡  曲者 待て

    〽声より早く打かくる 手裏剣発止と八汐が胸先 跡を晦ます鼠の曲者 忠義の両人

節之助 お怪我はないか

政岡  爰構わずと

節之助 合点じや


出典:土田衞他 『歌舞伎台帳集成』 第34巻 勉誠社 平成九年五月十日


衣裳・髪型について

荒獅子男之助の扮装…扮装は市川家に因み、三升紋の入った萌葱の木綿の着付けで袴を股立ちにとり、六弥太格子に牡丹をあしらった裃を着ける。鬘は甲羅付き獅子皮の生締め、顔は薄肉に隈は本来江戸紅の筋隈。九代目の早変わり演出以来一本隈の型もできた。


仁木弾正の扮装…仁木の役は、江戸後期の名優五代目松本幸四郎によって強烈なイメージを造形された。仁木については、五代目幸四郎個人の特徴である、眉の横の黒子や四つ花菱の家紋までもがその役に投影されて、「高麗屋型」として現在にまで継承されている。扮装は銀鼠の半着付けに鼠竜紋の熨斗目の長袴。鬘は、油付き・総髪の燕手という実悪の典型である。

六弥太格子
四つ花菱

出典:古井戸秀夫 『歌舞伎登場人物事典』 白水社 2006年5月10日

   切畑健 『歌舞伎衣装』 京都書院 1994年3月20日

   河竹登志夫 『伝統の美歌舞伎』 立風書房 


荒獅子男之助の隈…紅隈:紅隈は強さの象徴

荒獅子男之助の髪型…すっぽりの鬢菱皮の生締:菱皮はカラ毛へ漆をふいて固め、揉み上げはシッチウ心に巻く


仁木弾正の髪型…本毛鬢燕手の生締:対決の場には同形で傷の無いものを用いる。傷は差込み。根元の元結は十四本位巻く

紅隈
すっぽりの鬢菱皮の生締
本毛鬢燕手の生締

出典:菊池明 花咲一男 『原色浮世絵大百科事典』 第11巻 歌舞伎・遊里・索引 大修館書店 昭和57年11月10日

   松田青風 『歌舞伎のかつら』 演劇出版社 昭和34年9月20日


場面

仁木が連判状を咥え、両手で印を結んでおり、男之助が手に手裏剣を持っている所から、足利御殿床下の場で二人が相対しているシーンということがわかる。裏付けとして、古井戸秀夫編『歌舞伎登場人物事典』の一部を抜粋しておく。

足利家御床下の場で、妖術で鼠に化け、連判状を取り戻したが、忠臣荒獅子男之助に取り押さえられ眉間を鉄扇で割られて傷を負ったという設定で、連判の巻物を銜えて花道のスッポンよりセリ上がる。男之助に手裏剣を討ち、幕外に一人残って妖術を解き、連判の巻物を懐中し、舞台のツケ際に戻って、大見得、あとは差し出しの灯りにより鳴物入りで揚幕まで引っ込むだけという無言の役

出典:古井戸秀夫 『歌舞伎登場人物事典』 白水社 2006年5月10日


※見立てであるため、上演の資料がなかったものの、(上演は調べ中)江戸で上演された「先代萩御殿の場」において、9代目市川団十郎が荒獅子男之助を演じている場面の資料が見つかったので、一つ挙げておく。ここでは、仁木は鼠そのものの形で描かれている。(一緒に描かれているのは、松ヶ枝と八しほで、八しほは五代目尾上菊五郎である)

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舞台装置

せりあがり…花道の七三のスッポンから煙と共にせり上がってくる。この仕掛は、花道の切穴の上の覆い版をとり、下から俳優を乗せた台を綱をひいてせり上げるもの。これには図の如く多くのひとの助けが必要であり、多くの俳優の門弟・狂言方・大道具方が勤める。黒木綿の着物を着て、黒い紗の頭巾をかぶっている裏方を黒子(黒衣)と呼ぶが、歌舞伎の進行にはなくてはならぬ存在である。

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出典:菊池明 花咲一男 『原色浮世絵大百科事典』 第11巻 歌舞伎・遊里・索引 大修館書店 昭和57年11月10日


見立て絵について考察

上演記録が見つからなかったため、なぜ、このような見立て絵がつくられたかを考察していくことにする。 疑問とすべきは3点。なぜ、この年代に出版されたのか、なぜこの役者二人であったのか、なぜこの作品であったのかである。

まず、一点目の年代については、8代目市川団十郎の自殺が大きく関わっていると考えられる。8代目市川団十郎が亡くなった時期であるが、近世文芸研究叢書刊行会編の『市川團十郎の代々、市川團十郎』より

「安政元年八月六日には、異母兄たる八代目團十郎が大阪に死し」

また、野島寿三郎氏の『新訂増補歌舞伎人名事典』においては、

「死に方が異色であったため、その死を惜しむ浮世絵の死絵が300点以上、本も数種刊行された」

とある。このように、8代目市川団十郎の死を観客は衝撃的なこととして受け止めているということが見て取れる。そして、その後については、先と同書である近世文芸研究叢書刊行会編の『市川團十郎の代々、市川團十郎』より

「安政三年正月出版の評判記「役者雪月花」に、彼れを評して左のごとくいへり。 頭取:此處が成田屋の五男、御幼年より三丁目座本へ御養子にいかれ、當時評判高き若太夫丈で御座ります。一昨寅どし、上方にて御舎八代目丈死去にて、九代目の相続は權十郎丈と兼々御ヒイキ様よりも御勸で御座りますれば、無程團十郎と成られ升は。御幼年なれども身を入れて被成るし。元来御器用な御方ゆゑ誠に末頼もしく存じ升。ヒイキ:春はいよ〱九代になつて、兄御の當り役を見せてくんな。やれ若太夫さま〱」

とあり、9代目に対する周囲の期待が伺える。安政三年時点での期待度、注目度が高くなっていれば、見立て絵として書かれるのはありえるのではないかと推察する。


次に、二点目の役者については、上記の一点目でも言ったように、片方が次期の市川団十郎であったことが挙げられる。さらには、ここに描かれている二人が8代目市川団十郎と兄弟であったということが大きく関わっていると考えられる。先の項目である「題材」にて、安政2年に7代目市川高麗蔵が仁木役を演じていることも、見立て絵に描かれた理由となりえるだろう。


最後に三点目の作品については、まず、近世文芸研究叢書刊行会編の『近世日本演劇史』より、八代目團十郎が嘉永二年の三月に「伊達競」にて頼兼、谷蔵、其角、勝元、弾正、八汐、男之助を演じたということが記されていたことを挙げておく。ついで、戸板康二氏の『名作歌舞伎全集』第13巻において、

「八汐が女であることは残しておかなければならない。もっともこの役は、七代目市川団十郎が「伊達の七役」を演じて以来重い役になったので、以前はもっと軽い役だったらしい」

といった記述がみられるように、「伊達の七役」と通称がつくほど有名なものであったとわかる。それを、8代目市川団十郎がこなしていたならば、その後団十郎の名を継ぐだろう人物に対して期待する、ということは自然なように考えられる。

これらのことから、この見立て絵は作られたと推測した。

※補足として、安政4年の10月には9代目市川団十郎が男之助をつとめた「伊達競阿国歌舞伎」という演目がなされており、仁木弾正役は見立て絵とは別の役者(五代目彦三郎)が演じている。

※嘉永2年3月に8代目市川団十郎が今回扱った同場面で描かれている絵を挙げておく

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参考・引用文献:野島寿三郎 『新訂増補歌舞伎人名事典』 日外アソシエーツ 2002年6月25日

        伊原敏郎 『歌舞伎年表』 第七巻 岩波書店 昭和37年3月31日

        近世文芸研究叢書刊行会編  『市川團十郎の代々、市川團十郎』近世文芸研究叢書 第二期芸能編12 歌舞伎12 クレス出版 一九九七年四月二五日

        近世文芸研究叢書刊行会編  『近世日本演劇史』近世文芸研究叢書 第二期芸能篇3 歌舞伎3 クレス出版 一九九六年十二月二十五日

        戸板康二他 『名作歌舞伎全集』 第13巻 東京創元新社 昭和四十四年六月十日

 





















東海道五十三次の場所について

江尻・・・興津から一里〇三町で江尻の宿に着く。つぎの府中までは二里二十七町。江尻は、現在は静岡県清水市の内で、今の清水銀座がその宿の中心部とみられている。

府中・・・江尻の宿を出て西へと二里二十七町。いよいよ東海道の要都への府中へ入った。お江戸日本橋から四十四里二十七町。次の鞠子宿までは一里十八町であるし、京までは八十里〇二町である。

出典:八幡義生 『東海道』 有峰書店新社 昭和62年9月30日

二つとも今の静岡、昔の駿府のあたりである。まず、役名の弾正ということから調べ始めると、戦国武将の武田信玄に仕えていた高坂弾正(高坂虎綱)という人物に行きついた。その人物というのは、峰岸純夫氏他編の『戦国武将・合戦事典』より、高坂虎綱は、

     甲斐武田氏の家臣。春日弾正忠。名は昌信また昌宣・晴昌・晴久などにも作るが、『諸家古案集』(石井新蔵)所収永禄九年(一五六六)文書などによって虎綱と称したことは確実。    通称は源助のち源五郎。(中略)人となり温純にして智略に富み、武田信玄・勝頼二代の帷幕の功臣であった。三方原の戦では、諸将が浜松城攻撃を主張する中で独りこれに強く反対し    て信玄を諌めたとか

出典:峰岸純夫他編の『戦国武将・合戦事典』吉川弘文館二〇〇五年三月一日

という人物であるらしい、さらに、日本歴史学会編の雑誌『日本歴史』第二四五号における小林計一郎氏の『高坂弾正考』という論文から、

    三方ガ原の戦で、徳川家康の軍を大いに破った時、諸将は直ちに浜松城を攻めようとした。しかし高坂一人は反対した。「浜松城は家康が決死の覚悟で守っておりますから、これを攻   めおとすには、早くて二十日はかかりましょう。その間に織田信長が必ず後詰に来るに違いありません。いま信長の領国は十四カ国もあります。信長が大軍を率いて腹背に敵を受け、進   退両難に陥りましょう。」信玄はこれを聞いて、浜松城の攻撃を止めた

出典:小林計一郎『高坂弾正考』日本歴史学会編『日本歴史』第二四五号 一〇月号 吉川弘文館 昭和四三年 

という人物であること、そして、同論文から、

    弾正が「逃げ弾正」とうたわれ、諸傍輩にそしられながらも、「座敷の上にて能き奉公故」(「甲陽軍艦」五品目録)立身したというのも、もちろん確証はないが、弾正が才能と努力に   より能吏として立身したのは事実と思われる。

出典:小林計一郎『高坂弾正考』日本歴史学会編『日本歴史』第二四五号 一〇月号 吉川弘文館 昭和四三年

ということがわかった。ちなみに、三方ガ原の戦があったのは今の静岡県の場所である。これらのことから考察すると、仁木弾正という役と高坂弾正とは、両方とも智略に富んだ人物であったということ、さらに、「逃げの弾正」という呼び名から仁木弾正が連判状を口に咥え荒獅子男之助から逃げていくことが連想されるということ、そして、府中とのつながりは見いだせなかったが、高坂弾正の逸話が残り、評価されているのが府中の地域がある静岡県で生じた三方ヶ原の戦であったということ、これらの観点から東海道五十三次の府中と登場人物の仁木弾正が関係性を持つのだと推察する。



参考文献

・古井戸秀夫 『歌舞伎登場人物事典』 白水社 2006年5月10日

・野島寿三郎 『新訂増補歌舞伎人名事典』 日外アソシエーツ 2002年6月25日

・藤田洋編 『歌舞伎ハンドブック』 第3版 三省堂 2006年11月20日

・菊池明 花咲一男 『原色浮世絵大百科事典』 第11巻 歌舞伎・遊里・索引 大修館書店 昭和57年11月10日

・ 松田青風 『歌舞伎のかつら』 演劇出版社 昭和34年9月20日

・八幡義生 『東海道』 有峰書店新社 昭和62年9月30日

・峰岸純夫他編 『戦国武将・合戦事典』 吉川弘文館 2005年3月1日

・小林計一郎 『高坂弾正考』 日本歴史学会編 『日本歴史』 第二四五号 一〇月号 吉川弘文館 昭和四三年

・伊原敏郎 『歌舞伎年表』 第七巻 岩波書店 昭和37年3月31日

・村口一雄 『新群書類従』第四 演劇 第一書房 明治40年10月25日

・切畑健 『歌舞伎衣装』 京都書院 1994年3月20日

・河竹登志夫 『伝統の美歌舞伎』 立風書房 

・近世文芸研究叢書刊行会編  『市川團十郎の代々、市川團十郎』近世文芸研究叢書 第二期芸能編12 歌舞伎12 クレス出版 一九九七年四月二五日          ・近世文芸研究叢書刊行会編  『近世日本演劇史』近世文芸研究叢書 第二期芸能篇3 歌舞伎3 クレス出版 一九九六年十二月二十五日         ・土田衞他 『歌舞伎台帳集成』 第34巻 勉誠社 平成九年五月十日   ・アートリサーチセンター http://www.arc.ritsumei.ac.jp

・早稲田大学 演劇博物館 デジタル・アーカイブ・コレクション http://www.enpaku.waseda.ac.jp/db/index.html