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東海道五十三対 関


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[翻刻] 関

関の地蔵尊再興のとき一休和尚に開眼を乞ければ犢鼻褌(ふんどし)をときて地蔵の首にまとひし事は世に傳えて知るところなり 

高須の遊君地獄といふ女一休を尊信して信解を請る其始連歌問答のことは事繁ければここに誌さずその面影(かたち)を図するのみ


絵師:広重

改印: 村


この絵は、一休和尚が髑髏を掲げ、地獄太夫と対面しているところを描いたものである。


【関の地蔵開眼ばなしについて】

翻刻した文章の前半部分は地蔵院での関の地蔵供養についての記述であり、この話は一休和尚の伝説の中でも有名な話のひとつである。

この関の地蔵開眼ばなしが登場する『一休咄』巻一、「関の地蔵供養し給ふ事」のあらすじをまとめてみた。


関の地蔵を作ったとき、誰に開眼を頼もうかという話になった。ある村人が紫野の一休にまさる者はないと言ったので、早速京都に出掛けて頼むことにした。一休は関東行脚に出掛けようとしていたところだったので、快諾して関にやってくる。ところが開眼をする段になり、一休は地蔵の頭から小便をかけて「開眼はこれまで」と言い、関東を目指して行ってしまう。怒った村人は、地蔵を洗い流し、一休を追いかける。すると、地蔵を洗い流した者、一休を追いかけた者全員が倒れ、身を震わせた。「何故一休和尚が開眼してくださったのに洗い流したのか」と狂乱したので、再び一休に開眼してもらおうと親族たちが一休を追いかける。追いつくと一休は「この褌で地蔵の首をくくっておけば村人の病は治る」と言い、関東へと向かった。村人が言われたとおりにすると本当に病は治った。一休は帰りに再び関に立ち寄り、この褌を外して鰐口の緒にかけて京へ戻っていった。それ以来、仏神の鰐口の緒は褌に因み六尺と定められた。



『東海道名所図会』ではこの『一休咄』に依った記述があり、以下のような内容となっている。


〔一休噺〕に云く、むかし紫野の一休和尚こゝを通り給ひし時、此尊像年久しく馬蹄の塵に穢れ、荘厳衰弊しぬれば、里人集まりてこれを修補し奉るに、誰にても往来の僧のたふとからんを頼みて、開眼供養すべしとてまちける所、一休を見つけて、開眼を頼みしかば、いとやすくうけがひ給ひ、地蔵に打向ひて、何のこと葉はなくて、

釈迦はすぎ弥勒はいまだいでぬ間のかゝるうき世に目あかしめ地蔵

とよみて、小便をしかけて通り給ふ。里人安からぬ事かなと大いにいかり、凡開眼供養と申す事は、威儀正しく経をもよみ、其外さまざまの作善あるべき事なるに、わけもなき歌よみ散し、小便をしかけて打通り給ふこそ悪き僧かなと、人々あつまり洗ひ清めて、又荘厳彩色を直し、あたりちかき寺の僧をやとひて、開眼を改めける。かの僧ことごとしく威儀をつくろひ、九條の袈裟に座具とりそへ、水精の数珠をおしすり、地蔵発願経をかたことまじりによみ、高座に昇り、発願の鉦打ならし、鼻うちかみなどして、うるはしき声を出して、地蔵経をあらあらあら説きのべ、追従らしく啓白して、此所の老若男女、いのちは忉利天の天人にひとしく、かたちは金剛不壊になぞらへ、病のうれひは其名をもきかじ、田畠は穂に穂さかえ、雨風の難もなく、火難水難のおそれもなからん、ましてや此本尊は、将軍地蔵なり、たとひ大敵強盗ありといふとも、さらにちかづきやぶる事あるべからずなんど、よき事をそろへていひちらし、廻向のかねをうちならしければ、諸人これこそまことの開眼供養なれとて、随喜の涙をながしけり。其夜在所中の者に地蔵とりつきたまひ、口ばしりてはいはく、名僧のくやうによりて目をあきけるものを、いかにわけもなき供養にまよはしけるぞや、もとのごとくになしてかへせといひて、大熱出でゝ煩ひけるほどに、人々大に驚きて、一休和尚をよびかへして侘言せんとて、桑名にて追付き願ひければ、これより帰る事ならぬ、我よみし歌を三べんとなへ、此犢鼻褌を外しつかはす、これを地蔵の襟まきにかけよといひやり給へば、里人よろこびかへり、をしへのごとくいたしければ、たちまち祟やみにけり。今も麻のきれをえりまきにし給ふは、此いはれとぞしらる。

(東海道名所図会より引用)


『東海道名所図会』と『一休咄』を比較すると、①一休がたまたま通りかかる②「釈迦はすぎ弥勒はいまだいでぬ間のかゝるうき世に目あかしめ地蔵」という歌を詠む③村人が他の僧に開眼のやり直しを頼む④地蔵の首に麻をまく、という違いがあるが、それ以外の大まかな流れは『一休咄』と同じであることが分かる。しかし『一休咄』より先に書かれた『東海道名所記』では以下のような内容となっている。


昔紫野の一休和尚、ここをとほりたまひしに、その頃此所に地蔵菩薩をつくりたてゝ、誰にても往来の僧のたふとからんを頼みて、開眼すべしとて待ちける所に、一休をみつけ奉りて、開眼を頼みしかば、和尚いと易くうけがひ給ひ、すなはち地蔵にうちむかひて、言葉はなくて、

釈迦はすぎ弥勒はいまだいでぬ間のかゝるうき世に目あかしめ地蔵

とよみてうち通り給ふ。在所の人々、安からぬ事かな。およそ開眼供養と申す事は、威儀たゝしく経をもよみ、その外さまざまの作法あるべき事なるに、わけもなき歌よみちらして、うち通り給ふこそ心得ねとて、あたりちかき寺の僧をやとひて、開眼をいたしなほす。かの僧ことごとしく威儀をつくろひ、九條の袈裟に座具とりそへ、水精の数珠おしすり、地蔵発願経をかた言まじりによみ、高座にあがり、鼻うちかみて、地蔵の事あらあらあらとき述べ、追従らしく啓白して、此所の老若男女いのちは忉利の天人にひとしく、かたちは金剛不壊になぞらへ、病のうれへはその名をもきかじ、田畠は穂に穂さかえ、雨風の難もなく、火難水難のおそれもなからん。ましてやこの本尊は将軍地蔵なり、たとえ大敵強盗ありといふとも、更に近づき破るべからずなんど、よき事をそろへていひちらし、回向の鐘をうちならしければ、諸人これこそ真の開眼供養なれとて、随喜の涙をながしけり。その夜在所中のものに地蔵とりつきたまひ、口ばしりてはいはく、『名僧の供養によりて目をあきけるものを、いかにわけもなき供養にまよはしけるぞや。もとの如くになしてかへせ』といひて、大熱気さして、煩ひけるほどに、人々おどろきて、一休をよびかへして、詫言をいたしければ、又先の歌をとなへたまひしより、地蔵もしづまり給ひて、今にかくれなき関の地蔵と崇められ給ひけりと、聞傳へ侍り

(東海道名所記より引用)


太字にしたところが『東海道名所図会』と『東海道名所記』の違いである。 このように、話の流れは『東海道名所図会』とほとんど変わらないのだが、『東海道名所記』では一休は「釈迦は過ぎ弥勒はいまだ出でぬ間のかかるうき世に目あかしめ地蔵」と詠んで通り過ぎるだけで小便の話は見当たらない。

刊行順に並べると、

『東海道名所記』1660年

『一休咄』1668年

『東海道名所図会』1797年

という流れとなる。『東海道名所記』以降の関の地蔵開眼の話は、すべて『一休咄』と同じく小便の件が入る。小便の話は一休の奇行性を誇張したものだと考える。

この関の地蔵の話は、浄瑠璃『本朝檀特山』(1730)や歌舞伎『敵討一休咄』(1754)、『一休ばなし』(1754)など、多くの作品に登場する。このことからも、関の地蔵は一休の伝承のなかでかなり重要な位置を占めていたといえる。



【正月の髑髏について】

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正月の髑髏も一休伝承の中で著名なものである。『一休咄』巻ニ、「元三の朝しやれ頭を引て通り給ふ事」にもこの話がみれるので、あらすじをまとめる。


昨日と何かが変わったわけでもないのに、正月になるとどこの家でも門松を立て、注連縄を引き回す。その日は足を宙にして走り回るが、一夜明けると昨日のようにゆるゆるした心になる。また晦日がくるのはずのことも忘れ、いつ死ぬというわきまえもなく、同じ事を繰り返している人の心をおかしいと思った一休は、骸骨を拾ってきて竹の先に挿して「御用心御用心」と言って歩き回った。 ある人が一休に「めでたい正月に縁起でもない」と言ったところ、一休は「にくげなき此しゃれかうべあなかしこ 目出度かしくこれよりはなし」と詠み、髑髏を掲げ「目の出た穴だけ残っているのを、めでたいというのだ。昨日も無事に過ごした心の慣れから今日もうかうかと暮らしてしまい、明日は分からない世の中だとは目には見えないので用心しなさいと思うのだ。人は骸骨にならなければ、めでたいことは何も無い」と言い、人々は成程と思い一休を拝んだ。


この話は以下の『月刈藻集』の話が原型となっていると考えられている。


人語りテ、一休トイヘル禅宗の和尚アリシ。節分ノ夜ニ入テ、人ノ頭ノサレタルヲ取テ枝ニカケテ、人ノ門々ニサシ入テヨメル

カクナレル用心ハセデヤキ頭鬼ヤキラハン人ヤキラハン

(『月刈藻集』、一六四四頃成立)


正月髑髏は一休伝承の花形で、江戸の戯作にも登場する。現代では伝承の過程で変化し、歌が「門松は冥途の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなし」に入れ替わった場合が多い。東海道五十三対の絵にも門松が立てられていることが分かる。一休、髑髏、門松の3つを合わせて、正月髑髏を表現することが多い。


【地獄太夫について】

地獄太夫は『一休関東咄』(1672)に登場する遊女である。以下は『一休関東咄』を引用したものである。


一休和尚、堺の浦へ御こしの時、ところに旅客を宿する店屋あり。その中に地獄といえる遊女あり。一休和尚を知りて、一首を詠じて和尚にたてまつりける、

山居せば深山の奥に住めよかし ここは浮世のさかい近きに

一休そのまま返歌、

一休が身をば身ほどに思わねば 市も山家も同じ住み屋よ

和尚もただならぬ者と思しめし、あたりの者によしを尋ね給えば、「あれこそ人の知りたる、地獄と申す遊女にて候」と申しければ、和尚そのまま、

聞きしより見て怖ろしき地獄かな

遊女とりあえず、

しにくる人のおちざるはなし

(『一休関東咄』、第七「堺の浦にて遊女と歌問答の事」)


ここに見られるような、一休と地獄太夫との連歌問答は、のちの『続一休咄』(1731)や山東京伝の『本朝酔菩提全伝』(1809)でも伝えられることとなる。『本朝酔菩提全伝』巻四「地獄信解品第七」では、地獄は一休から「男女の淫楽は臭骸を抱く」とさとされ、「妾のような賤しく罪深い者でも、髪を落として仏に仕える身になれたならば、救いの道も開かれましょうものを」と悲観する。一休は「姿を変えるに及ばない。そなたたちは五尺のからだを売って衆生の煩悩をやすんじている。法を売って衆生を惑わす邪禅賊僧に遙かにまさっている。職と姿とにこだわるに及ばぬ。ただ自然の情を守って、別に道を求めぬことだ。“極楽も地獄も知らぬ思い出に、生まれぬ先の者となるべし”この歌の真実をよく工夫したならば、心の眼が開ける時節があろう」とさとした。これにより地獄太夫は悟りを開いたとされている。


【考察】

関の地蔵開眼供養、正月髑髏、地獄太夫との連歌問答と3つの一休伝承についてまとめたが、東海道五十三対の絵に見られるような、一休が地獄太夫に正月髑髏をするような場面はどの作品にも見られなかった。

下の豊国の絵は、演目は分からないが一休禅師を中村福助、地獄太夫を中村富十郎が演じている。浄瑠璃か歌舞伎の一場面だと考えられるが、豊国の絵は東海道五十三対の絵とあまりにも酷似している。豊国は広重の東海道五十三対の絵を参考にして、この絵を描いたのではないだろうか。もしくは、広重の絵を取り込んだ浄瑠璃や歌舞伎が上演されたのではないだろうか。


一番下の国周の絵は、「鶴千歳曽我門松」を描いたものである。ここでも一休和尚の隣には地獄太夫が描かれており、さらに一休は正月髑髏を思わせる、髑髏の旗を掲げている。『黙阿弥全集』にある「鶴千歳曽我門松」の台本には、一休と地獄太夫は語りの部分に名前があがっているだけで、話の中自体には、台本が欠落してしまったためか登場していなかった。この作品の元となった『本朝酔菩提全伝』を調べたところ、野晒悟助は地獄太夫の兄であり、地獄太夫の最期を一休とともに看取っている。しかし絵に描かれているような、一休が門松の前で髑髏の旗を持つような場面はなかった。この絵もしくは作品も、広重の東海道五十三対の絵から発生したのではないだろうか。


006-0016..jpg006-5208..jpg絵師:豊国(3)、1854年、一休禅師宗純:中村福助、地獄太夫:中村富十郎


101-0423..jpg101-0422..jpg101-0421..jpg絵師:国周、1865年、野晒悟助:市村家橘、地獄太夫:坂東彦三郎、一休禅師:市川団蔵


東海道五十三対の絵よりも先に、一休が地獄太夫に正月髑髏をしているところを描いた作品はない。しかし、東海道五十三対の絵が書かれたあとには、この絵に似た構図の作品が多く遺されている。広重は関という地名から、一休の地蔵開眼供養の話を取り出し、さらに一休の伝承として有名である正月髑髏と地獄太夫を混ぜて、ひとつの作品に仕上げたのではないだろうか。


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右の絵は、国貞が1865年に描いた野晒悟助であるが、着物の柄が髑髏に見える。これは地獄大夫が着ていた、地獄変相図の着物を連想させるものだといえる。 台本が見つからなかったため、地獄大夫がどのように「鶴千歳曽我門松」に登場していたのかは分からない。しかし、上の豊国・国周の絵に描かれているように、一休・野晒悟助と絡んで、何らかの形で登場していた可能性はある。

また、作品の元となった『本朝酔菩提全伝』で、野晒悟助と地獄大夫は兄妹であるとされていたが、それを意識したかのような、髑髏の着物の柄。しかし、これはすべての絵に共通しておらず、絵師によって異なる。例として挙げた、右の国貞の絵は、野晒悟助と地獄大夫の関係性を強調するために並んで配させ、野晒悟助に普段は地獄大夫が着ているような柄の着物を着せたのだろう。また、髑髏と言えば、一休の正月髑髏も連想させる。この国貞の絵は、地獄大夫と野晒悟助の関係を強調するとともに、ここには描かれていない一休をも意識している絵といえよう。













・「滑稽文学全集 第一巻」、古谷知新編、文芸書院、1917

・「昔話稻妻表紙 ; 本朝醉菩提」、塚本哲三編、有朋堂書店、1918

・「黙阿彌全集 第6巻」、河竹糸女補修 ; 河竹繁俊校訂編纂、春陽堂、1924

・「東海道名所図会」、秋里籬島、人物往来社、1967

・「原色浮世絵大百科事典 第四巻 画題-説話・伝説・戯曲-」、鈴木重三執筆、銀河社、1981

・「日本歴史地名大系 24三重県の地名」、1983、平凡社

・「仮名草子集 新日本古典文学体系74」、岩波書店、1991

・「新潮日本人名辞典」、新潮社、1991

・「一休ばなし集成」、三瓶達司, 禅文化研究所編、禅文化研究所、1993

・「朝日 日本歴史人物事典」、小泉欽司編、朝日新聞社発行、1994

・「一休ばなし とんち小僧の来歴」、岡雅彦、平凡社、1995

・「歌舞伎名作事典」、演劇出版社、1996

・「東海道名所図会を読む」、粕谷宏紀著、東京堂出版、1997

・「仮名草子集 新編日本古典文学全集64」、小学館、1999

・「歌舞伎事典」、服部幸雄, 富田鉄之助, 廣末保編、平凡社、2000

・「歌舞伎登場人物事典」、古井戸秀夫編、白水社、2006