関寺牛仏

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せきでらうしぼとけ


画題

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解説

東洋画題綜覧

関寺の縁起として有名な霊牛の物語は『今昔物語』の第十二巻に出づ。これを引く。

今は昔、左衛門の大夫平の朝臣義清と云ふ人ありけり、其の父は中方といふ越中の守にて有ける時、其の国より黒き牛一頭得たり中方年末此れに乗て行く程に、清水に相ひ知れる僧の有るに此の牛を与へつ、其の清水の僧、此の牛を大津に有る周防の掾正則といふ者に与へつ、而る間、関寺に住む聖人の関寺を修造する間に、此の聖人雑役の空車を持て牛の無きを見て正則此の牛を聖人に与へつ、聖人此の牛を得て喜で車に懸て寺の修造の料の材木を令引む、材木皆引き畢て後に、三井寺の明尊前の大僧都にて、夢に自ら関寺に詣づ一の黒き牛有り堂の前に繋ぎたり、僧都此れは何ぞの牛ぞと問ふに、牛答へて云く、我れはこれ迦葉仏也、而るに此の関寺の仏法を助けむが為めに、牛と成て来れる也と云ふと見る程に夢覚めぬ、僧都此れを怪むで、明る朝に弟子の僧一人を以て関寺に遣し教て云く、若し寺の材木引く黒き牛其の寺に有ると問て来れと、僧関寺に行て即ち返来て云く、黒き大なる牛の角少し平みたる、聖人の房の傍に立たり、此れは何ぞの牛ぞと問へば、聖人の云く此寺の材木引むが為に儲たる牛也と、僧返て其由を僧都に申す、僧都此を聞て驚き貴みて三井寺より多の止事なき僧共を引将て歩行にて関寺に詣で、先づ牛を尋るに、牛不見ず、牛何にぞと問へば、聖人飼はむが為めに山の方へ遣しつ、速に取りに可遣しと云て童を遣りつ、牛童に違て堂の後の方に下り来れり、僧都取て将来れと宣ふ程に、牛不被取ず、只離れてぞ行き給はむを可礼き也とて、恭敬礼拝すること限なし、他の僧共も皆礼拝す、其の時に牛、堂を右に三匝廻て庭に仏の御前に向て臥しぬ、僧都より始めて此を見て、仏を三匝廻る、此れ希有の事也と云て弥よ貴ぶ、其の中に聖人達たる僧共に皆泣きぬ、如此して僧都返ぬ、其の後、此の事世に広く聞えて京中の人首を挙て不詣ずと云ふ事なし、入道大相国より始め奉て、公卿殿上人皆不詣ぬ人なし、而るに小野の宮の実資の右大臣のみぞ不参詣ざりける、閑院太政大臣公季と申す人参給て、下人其の遣らむ方なく多かりけるに、此の牛寺の内に車に乍乗ら入給へるを罪得がましくや思ひけむ、俄に索を引切て山様に逃去ぬ、太政大臣此れを見給て下居て云く、乍乗入つるを無礼也と思て、此の牛の逃ぬる也と侮い悲びて泣き給ふ事無限し、其の時にかく懺悔し給ふを哀れとや思ひけむ、牛漸く山より下来て牛屋の内に臥ぬ、其の時に太政大臣草を取て牛に含め給ふに牛殊に草も不食て臥たる心地に此の草を含めば、太政大臣襴の袖を面に塞て泣き給ふ事無限し、見る人も皆貴がりて泣きぬ、女房は鷹司殿、関白殿の北の方、皆参り給へり、如此四五日の間首を挙て諸の上中下の人、参り集る程に、聖人の夢に此の牛告て云く、我れ此の寺の事、勤畢ぬ、今は明後日の夕方帰なむとすと云ふ、と見て夢覚て泣き悲て三井寺の僧都の許に詣て此の由を告ぐ、僧都の云く、此の寺にも而る夢見て語人有りつ、哀なる事かなとて、泣々貴ぶ、其の時に此の事を諸の人聞き継て弥よ詣る事道隙無し、其の日に成て山三井寺の人参り集り、阿弥陀経を読む事山を響かす、昔の沙羅林の儀式被思出て悲き事無限し、漸く夕晩方に至る間に、牛露泥む気色無し、此の参り合へる中にも邪見なる者共、牛死なずして止なむずるなめりと云ひ嘲る、両る間漸く晩方に成る程に臥たる牛立走て堂に詣て三匝廻るに、二度に成るに忽に苦ぶ気色有て臥ては起く、如此両三度して三匝を廻り畢て後に牛屋に返り、至て枕を北にして臥しぬ、四の足を指し延ベて、寝入るが如くして死しぬ、其の時に参り集れる若干の上中下の道俗男女音を挙て泣き合へり、阿弥陀経を読み、念仏を唱る事無限し。人皆返ぬれば、牛をば牛屋の上の方に少し登て土葬にしつ、其の上に卒都婆をたて、釘抜を差せり、夏の事なれば、土葬也と云へども、少も香可有きに、露其臭き香なし、其後七日毎に仏経を供養す、七七日若は明る年の其の日に至るまで諸の人皆取々に仏事を行ふ。

関寺縁起は大和絵の画材にふさはしい。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)