鈴屋の翁

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すずのやのおきな


画題

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解説

東洋画題綜覧

国学者本居宣長の号、宣長は幼名を富之助、通称を弥四郎、後ち健蔵、春庵、中衛などゝ改め、宣長といふに至る、小津定利の二子で、享保十五年五月伊勢国飯高郡松坂に生れた、宝暦元年入洛して儒学を堀景山に学び、次で武川幸順に就いて小児科の医術を学んだが、七年帰国して医を業とした、十一年はじめて賀茂真淵の門に入つて古学を研究し明和元年古事記伝の稿を起した、爾来身を学事に委ねて名声漸く著はれ、寛政六年紀伊治宝の召に応じて紀州に赴き古書を進講したが、此の時既に宣長の名声天下に洽く刺を通じて門下に列するもの引きも切らず、享和元年京都に遊んだ時の如きは公卿等争うて其の旅館を訪ひ、その講義を聴くこと連日に及んだといふ、九月病に罹り二十九日歿した、年七十二。

天明二年五十三歳の冬、家のうちに高き屋をつくりて、その名を鈴の屋となづけられぬ、そは三十六ある小鈴を赤き長き緒にぬきたれて柱などにかけおかれたればなり、かくて書読みて睡を催すたびごと、さなくも、ものむつかしきをりをりには、そと引きならして、その音をきき、心ちすがしくなるままに、また鋭心ふり起していそしまれたるよしなり、思へばその鈴の功もまた大なりといふべからむ、鈴の歌に

床のべに、わがかけて、いにしへしらぶ、鈴かねのさやさや  (落合直文本居宣長)

これを画いた作

坂内青嵐筆  『鈴屋の翁』  第九回帝展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)