貫之

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つらゆき


画題

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解説

画題辞典

貫之、紀氏、平安朝に出づ、歌聖なり、延喜中御書所預より起り、延長中大監物右京亮となり、又土佐守に任じて下国す、土佐日記はこの折の日記なり、承平中木工権頭になり従四位に陞り、九年卒す、本朝最初の勅選たる古今和歌集は貫之が紀友則等と共に撰したる所にして、貫之実にこれが序を作る、後世歌聖をいうもの、先づ貫之を推して右行第一となし、次いで柿本人麿を配す、書亦甚だ巧なり、古今土佐派の諸家より各家の筆になる画像少しとせず。

伝藤原信実筆(高橋男爵所蔵)、岩佐勝以筆(武岡豊太氏所蔵)、英一蝶筆(阿部伯爵所蔵)

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

紀貫之、平安朝の歌人、幼字は河古久曽、父は望月蔵人、和歌を以て聞えてゐた、貫之書を能くし、最も和歌に長じ、延喜年中御書所預となり、越前権少掾内膳典膳少内記を歴、大内記に転じ従五位に叙せられ加賀美濃介となる、延長中大監物右京亮に拝せられ土佐守となる、承平中任満ちて京師に帰る、天慶中玄蕃頭となり、六年正月従五位上に進み、八年木工権頭に遷り、後、従四位下に叙せられ九年(或云五月十八日又云十月九日)卒す、初め疾を得て自ら起たざるを慮り、歌を作り源公忠に寄せて曰く

手にむすぶ水にやどれるつきかげの有るか無きかの世にこそありけれ

と卒するに及び、公忠歌を作つて之を悼む、嘗て姪友則及び凡河内躬恒、壬生忠岑と勅を奉じて古今和歌集を撰し、貫之序を作る、世の人、よく和歌の大体を論ずるを称した、集成つて文を奉る、朝廷特旨を以て貫之の歌一百首を採つて撰に入れた、又万葉集鈔五巻を撰し、更に勅を奉じて新撰和歌集を撰した、尋で任に土佐に赴き任を終へ京に帰り集成つて未だ上進せぬ中に天皇崩御あらせられた、貫之序を作つて時に奉御に及ばなかつたことを憾んだ、詞甚だ哀切を極む。なほ貫之には紀行が一巻ある、即ち『土佐日記』で世に聞えてゐる、又ある時、貫之紀伊に赴き、夜、和泉を過ぐる時、騎る処の馬地に伏して進まず、貫之、之れを怪む、人告げて曰く、此地に蟻あり、能く神に通ず、今礼なくして、即ちその怒に触れたのであると、貫之大に驚き、馬から下り、盥嗽し、和歌を詠じて謝す曰く、

かき曇り黒白も知らぬ大空にありと星をば思ふべしやは

馬即ち進むと、集に貫之集あつて世に行はれ、後人歌仙を撰するや貫之を推して各行第一とし柿本人麿に配し、和歌の祖宗と仰ぐに至つた。明治三十七年四月従二位を贈らる。  (大日本史)

貫之の像は歌仙絵として画かるゝ中に藤原信実筆(佐竹家伝来)及業兼筆といふもの最も有名である。外に岩佐勝以にも人麿と双幅に画いた作がある。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)