藤原鎌足

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ふじわらのかまたり


画題

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解説

画題辞典

藤原鎌足、一名は鎌子、本姓は中臣、藤原氏の祖なり、常陸鹿島に生る、長して大和三島に居る、孝徳天皇潜龍の日最も鎌足と善し、錐足深く其知遇に感ず、皇極天皇の世蘇我入鹿積威を恃みて専恣多く、窃に社稷を覬覦す、鎌足是を以て匡済の意あり、即ち意を中大兄皇子に屬し、皇子が蹴鞠の遊を為す際を機として之に近づき、互に肺腑を開き孔孟の道を南淵先生に學ぶじ托して車を同うして往來し、車中に密議ず、次いで皇子に勧めて婚を右族曾我倉山田石川麻呂に結ばしめ、延いて之を援とす、而して同年六月三韓進調のを日以て事を挙げ、皇子と共に入りて蘇我入鹿を皇極殿に誅し、続いてその父蝦夷の邸を襲ひ、蝦夷自盡し蘇我氏亡ぶ、かくて孝徳天皇印位するに及び中大兄皇子皇太子となり、之と共に翼賛して謂ゆる大化の新政を實行す。鎌足内臣を拜す、天智天皇印位に及び威望更に高く、二年十月病あるや大織冠を投けられ内大臣となり更に藤原姓を賜はる、事いで薨す、年五十、初め摂津阿威山に葬り、後大和多武峯に改葬す、画像談山神社に伝ふ、又栗田日隆光の筆に成るものあり、亦大倉男爵所蔵に室町時代の画像あり、中大兄皇子との蹴鞠の図は亦歴史画の好画題として図せらる。

(『画題辞典』斎藤隆三)

前賢故実

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初名は中臣鎌子。皇極天皇朝の時代、蘇我蝦夷とその息子入鹿が、権力をほしいままにして、日に増して横暴さが募っていた。鎌足は、悪逆の蘇我が天と人に許されないと思って、蘇我を誅しようと謀り、病があると偽って三島に退いた。当時の皇弟軽が蘇我を除きたくて、寵妃を鎌足に賜り、鎌足と密議をしていた。鎌足はまた毬を打つ場所で中大兄皇子(天智天皇)に出会い、皇子と親しくなり、蘇我の成敗について共謀するようになった。三韓の使者が天皇に拝謁する日に、入鹿が大極殿に入ると、中大兄皇子は自ら衛兵を連れて宮門を鎮守、鎌足は弓矢を持って皇子に従い構えた。そして、中大兄皇子は佐伯子麻呂を促し、共に大極殿に入って入鹿を斬りつけた。遂に稚犬養網田が入鹿を斬り殺した。一方、巨勢徳太古が兵を起こして蘇我蝦夷を討ち、蝦夷を自殺に追い込んだ。皇極天皇は皇弟に譲位するという詔を下した。皇弟輕は孝徳天皇として即位し、鎌足に大錦冠の位を与え、内臣に任じた。天智天皇二年、鎌足が病にかかったとき、帝は自ら鎌足を慰問した。天智天皇は、鎌足に藤原の姓を賜り、大織冠を授け、内大臣に任じた。まもなくして鎌足は薨去、享年五十六歳。

たまくしげ みむろのやまの さなかづら さねずはつひに ありかつましじ

(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

藤原氏の祖、本氏は中臣、常陸に生る(大鏡)皇極天皇三年神祇伯に拝せられたが病と称して就かず、退いて摂津の三島に居る、蓋し大志を抱くを以てである、孝徳天皇潜竜の日、鎌足と相親善にして敬待すること厚きにより鎌足その知遇に感激し翼戴の意を通じた、是時に当り蘇我入鹿不臣の心を挟み社稷を窺ふ、鎌足慨然として起ち、即ち意を中大兄皇子に属し、相共に謀る処あつたが、人の嫌疑を恐れ、周孔の道を南淵先生に学ぶに託して相往来してゐた、或時鎌足、皇子に勧めて曰く、大事を為さんとするには毘輔の臣無かるべからず、宜しく蘇我倉山田石川麿と婚を結び、好を通じこれと謀ること捷径の由を奏す、皇子大に喜びこれに従ひ遂に其女を納れた、是に於て石川麿も赤心を以て皇子に仕へることゝなつた、既にして鎌足また佐伯子麿、葛城稚大養綱田を以て与党とし、四年六月三韓進調の日、入鹿の入朝するを伺ひ皇子と共に入鹿を誅した、入鹿の父蝦夷もまた自刃し事平ぐ、尋で天皇は位を中大兄皇子に譲らんとし給ふたが、鎌足は皇子に説いて軽皇子に譲らせ給ふた、これを孝徳天皇と称し奉る、天皇鎌足を以て内臣となし、大錦冠を授け給ふ、而して大化革新の政、皆鎌足が中大兄皇子と計つて画策した処である、白雉五年紫冠を授けらる、而して天智天皇即位の二年鎌足の病むや、天皇親しく其第に臨ませられ病を訪ひ給ひ、尋で皇太弟大海人皇子を遣はし、大織冠を授け内大臣と為す、位左右大臣の上にあり、また姓を藤原と賜うた、同月薨ず、年五十(或は五十六)摂津阿威山に葬つたが、後大和の多武峰に改葬した。  (大日本史)

藤原鎌足を画いた作

粟田口隆光筆  『鎌足公画像』  談山神社蔵

伝土佐広周筆  『鎌足公』    小泉三申氏旧蔵

筆者不詳    『同上』     同

野田九浦筆   『藤原鎌足公』  煌土社展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)