藤原豊成

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ふじわらの とよなり


画題

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解説

前賢故実

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右大臣武智麻呂の長子。天平勝宝元年に右大臣になった。太子が廃されたとき、豊成は塩焼王を次の太子に推戴したかったが、豊成の弟仲麻呂に反対された。仲麻呂が推戴した大炊王は、立太子されて後に淳仁天皇に即位し、仲麻呂を内相に任じた。権勢をほしいままにする仲麻呂に比べて、豊成は優しくて思いやりがあり、仲麻呂の行為に対して批判的であった。仲麻呂の讒言によって、豊成は右大臣より太宰員外に左遷された。難波の別荘に至ると、豊成は病があると称して別荘に籠り、大宰府へ行かなかった。仲麻呂が誅殺された後、豊成は右大臣として復帰し、朝廷より四十人の帯刀が下賜され、從一位を授けられた。が、豊成は安易に受け取らず、「臣は累世の相門の家の出身で、長い間栄華や寵愛を承ってきた。しかし、ご恩に報いることがなく、深く恥ずかしく思っている。これに加えて、臣は逆臣の同族であり、愚昧を顧みず殊恩を頂く面目がない。伏して先代の朝廷より賜った功名や恩賞の奉還をお許し申し上げます。少しでも天下の人々からの非難を和らげたい。」と上表し官禄を固辞した。帝は豊成の奏請を聞入れた。神護元年薨去、享年六十二歳。横佩大臣と称されていた。

(『前賢故実』)