藤原松影

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ふじわらの まつかげ


画題

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解説

前賢故実

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刑部少輔星雄の子。厳格な人柄と立派な顔立ちを持ち、若くして名声を博した。天長初年に式部大丞に任ぜられ、のち春宮少進になったが、再び式部大丞に戻った。嵯峨上皇の皇子源常が勅命によって剣を身につけたまま宮殿へ上がったが、松影に詰問され、理由を聞いてもらえず、恥ずかしい思いをして帰った。これを知った帝は激怒し、松影を弾正少忠へ左遷させた。承和元年、松影は聘唐使判官に任命されたが、母の病気を理由に固辞した。三年後、式部大丞に復職、丹後介を経て再び式部大丞を務めた。承和十一年に從五位下を授かれ、のち左少辨、中務省、治部省、出雲守、山城守を歴任。斉衡二年病死、享年五十七歳。松影は式部を四回務めていたため、故事について熟知していた。これは進退などの動きに役立っていた。当時、式部に入った者はみな松影を手本にしていた。

(『前賢故実』)