薄雲

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うすぐも


画題

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解説

画題辞典

一。源氏物語の一節なり。輝く日の宮藤壺と申せしを薄雲の女院というなり、冷泉院を産み玉うて、十一歳にて即位あり、随って藤壷の更衣も中宮より女院にはなりしなり、然るにいく程もなく三十七の三月というに世を去リ玉う、源氏の君嘆き深く「入日さす峯のたなびく薄雲に もの思ふ神の色にまがへる」とあり。源氏絵の一として画かる。二。薄雲は万治年中江戸吉原に在りたる名妓なり、容姿艶麗、和歌を善くし書をよくし、又義に厚く任侠の風あリ伝えていう。某大諸侯その姿色を喜び、聘すること半歳なりしも竟に従わず、某侯大に怒り三千金を擲ちて之を購い、屋敷に伴い到り、以て之を挑みしに尚、従わず、竟にその殺す所となると。

其像を画くもの伝岩佐又兵衛筆(水戸徳川侯爵旧蔵)以下数種あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

源氏物語』五十四帖の中、光源氏三十一歳の冬から三十二の秋までの事を記してゐる、源氏と縁の深かつた輝く日の宮藤壷、薄雲の女院となり、冷泉院は十一にして即位あり、普通ならば我が世の春を謳ふべきに、無情の嵐は三十七の三月その命を奪つてしまつた、源氏の悲しみは更なり、世は薄雲のひとつ色に黒みわたる。

をさめ奉るにも世の中ひゞきて悲しと思はぬ人なし、殿上人など、なべてひとつ色に黒みわたりて、物のはえなき春の暮なり、二条院の御前の桜を御覧じても、花の宴の折など思し出づ、今年ばかりはとひとりごち給ひて人の見咎めつベければ、御念誦堂に籠り居給ひて日一日と泣き暮し給ふ、夕日花やかにさして山際の木ずゑあらはなるに、雲の薄く渡れるか、鈍色なるを、何事も御目留らぬ比なれど、いと物あはれにおぼさる。

入日さす峰にたなびくうす雲はものおもふ袖にいろやまがへる

巻の名は此の一節から出てゐる。源氏絵として画かれてゐる外に、光起には若菜と共に六曲一双に描けるあり(藤田男爵家旧蔵)紀州家には如慶の『源氏手鑑』の中に此の一図が画れてゐる。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)