菅原峰嗣

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すがわらの みねつぐ


画題

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解説

前賢故実

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元の姓は出雲朝臣。父広貞が医術に精通し、正五位下、信濃守にまで務めていた。広貞はかつて平城天皇の勅命を受けて、安倍真直などとともに百巻の大同類聚方を編纂したことがある。峯嗣は医得業生として淳和天皇に仕え、天長五年に侍医を兼任し、のち寵遇が厚くて、從五位上、典薬頭に任ぜられた。貞観五年、老齢を理由に職を辞したが、攝津権守に転じて家居することが多かった。閑居を好んで俗人と交流せず、自ら薬草を栽培し、調薬がよく効いたという。また、勅命を奉じて諸医家とともに金蘭方を選定した。さらに鍼灸法に註を付け加えて献上した。七十八歳で亡くなった。

(『前賢故実』)