芭蕉

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ばしょう


画題

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解説

画題辞典

一 松尾芭蕉は俳道の聖と崇むる所なり。幼名甚七郎、長じて忠右衛門といふ。夭々軒桃青。芭蕉庵、釣月軒などの号あり。正保元年伊賀柘植村に生る。初め伊賀上野の城代藤堂良精に仕へしが、寛文七年致仕を請うて允されざるに及び、主家を脱走し京都に赴き、北村季吟の門に入り和歌俳譜を學び、尋いで江戸に遊び更に四方に出遊して自然に接し、遂に俳譜を以て 一家を立て、名声を天下に馳せ、俳道中興の祖と称せらるゝに至る。元禄七年大阪旅中痢を病み、十月十二日五十一歳を以て卒す。近江義仲寺に葬る。芭蕉の俳句実情を旨とし幽玄の態を以て自然の寂蓼の風趣を寓す。世に之を正風と称す。斯道に携はるものゝ等しく仰ぐ所なり。蕪村の筆を始め世に之を図するもの多し。

一 暖国の草に芭蕉あり夙に本邦にも移植さる。葉大に高さ丈に及ぶ風情多きものとして屡々図さる。

沈南蘋蘋筆雪中芭蕉(大阪大辻氏所蔵)

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

(一)江戸の俳人、俳壇正風の祖、初め名を金作と称し後甚五郎と改め、また宗房とも呼んだ、通称忠左衛門、芭蕉は其の号で、自らははせをと署した、また風蘿、桃青羽扇、釣月、羊角の別号もある。正保元年伊賀園阿山郡柘植村に儀左衛門の三子として生れ承応九年九歳の折、伊賀上野の城代藤堂良精に仕へ其長子良忠に近侍して寵を受け良忠の早世により追慕の余り遯世の志を発し致仕を乞ふたが許されず、因て自ら去る、二十三の時京都に赴き北村季吟の門に入り和歌俳諧を学び伊藤坦庵に師事して詩を学び尋で西国に歴遊し江戸に出た、会々小石川関口に水路工事が起つたので此の事に与つたが幾くもなく辞した、夙に西行法師の風調を慕ひ諸所に流浪の後、天和元年居を深川六間堀に卜し薙髪して夭々軒桃青と号した、当時芭蕉は既に俳諸の研究を以て自ら任じ門戸を立てゝ子弟に教ふ、其の説く処、実に東坡が風情、杜子の洒落、山谷の景色を以てし、これを我が俳諧に加味酌量し更に幽邃流暢を以て顕はした、是に於て其門に入る者甚だ多く、庭前芭蕉一株を栽ゑ年経て繁茂したので愛玩措かず遂にこれを号とした、芭蕉また甚だ旅を好み、鹿島に遊び大和を巡り須磨に至つて更に陸奥より北陸を巡り至る処必ず句を遺す。

あら海や佐渡に横たふ天の川

五月雨をあつめて早し最上川

行く春を近江の人と惜みけり

旅人と我名呼ばれん初時雨

等皆旅の句である、元禄七年会々伊賀より大阪に到り将さに南都に赴かんとして下痢を発し、

旅に病んで夢は枯野をかけめぐる

の辞世を遣して十月十二日逝く、歳五十一、近江義仲寺に葬る。  (大日本人名辞書)

芭蕉翁の像は、世に行はるもの極めて多いが、中でも蕪村の作世に聞えてゐるし、また崋山にも『芭蕉翁画賛』があり、波多野古渓氏の旧蔵である、なほ現代の作家に左の諸点がある。

野田九浦筆  『旅人』      第七回帝展出品

萩原達義筆  『木曽路の芭蕉』  第十一回帝展出品

(二)古くはばせを、暖国産の植物の名、茎の囲み尺に及び虚軟なること芋茎の如く皮重つて包む、高さ五七尺葉長大にして丈に及び幅一二尺花は数年を隔て開く、故に優曇華の名がある、長い茎を生じ、頂に大な一花を下垂する、黄白色で、花を生ずれば傍から小苗を出して枯れる。別名『怯風』

芭蕉植秋檻、勿云憔忰姿、与君障夏日、羽扇寧復持。  朱子

芭蕉の描かれたるもの古来少くない。

沈南蘋筆   『芭蕉喜雀図』  紀州徳川家旧蔵

高鳳翰筆   『緑天清蔭』   所蔵者不明

宗達筆    『芭蕉襖絵』   京都大覚寺蔵

荒木十畝筆  『芭蕉喜雀図』  個人展覧会出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)