総合
舞台
能に関わる全ての演者が登退場したり、座したり、演技したりする空間の総称。横の広がりとしては、具体的には、本舞台・橋掛り・後座・地謡座からなる空間。また、その周囲の白洲(玉砂利)やその上に立てられた松(一ノ松・二ノ松・三ノ松)が能の演出に利用される場合があり、その意味では、それらをも広く含めて「舞台」と呼ぶことができる。
次に、縦の広がりとしては、具体的には、舞台の床・葺き屋根・屋根を支える柱・幕・鏡板の松・欄干などから成る(ここにも玉砂利とそこに立てられた松を含めてもよい)。葺き屋根は、屋外への設置を意図して設けられたものである。しかし、現在の能の上演の基本的な場である能楽堂においては、近代的な建築物の中に舞台がしつらえられているので、葺き屋根は実用的な意味では不要である。それにもかかわらず能楽堂の舞台にも葺き屋根があり、建築物の中に建築物があるという入れ篭式の造りになっているのは、古くからの能舞台の構造を踏襲したものであり、その存在意義は、現在では古い舞台の風情を留めることにある。同様の建造物としては、国技館などの相撲の土俵の上方の吊り屋根がある。
ただし、その屋根を支える本舞台の柱は、面を掛け視界に制限のある立ち役が、舞台上で自身の位置を測るための目安となっており、今でも実用的役割を果たしている。その点では、安全上の理由から戦後取り外された相撲の土俵の柱とは異なる。
なお、舞台正面先に、舞台と白洲を昇降できる階(白洲梯子とも)と呼ばれる階段が付いているが、これは江戸時代に、能奉行が能の開始を役者に告げるために舞台に上がる際に使ったものであり、現在では能の上演に用いられることはほとんどない。
本舞台
舞台の四隅にある柱で囲まれた正方形の空間を、特に本舞台という。能の主要な演技、あるいは仕舞・一調などの様々な上演形態は、ほとんどこの本舞台で行われる。
現在の本舞台は立地条件などにより、柱の内側で三間四方になる大ぶりの舞台と、外側で三間四方になる小ぶりの舞台がある。
また正方形の本舞台を九等分し、それぞれの場所を見所から向かって、手前左から角、正先・脇座前・真中左から脇正・正中・地謡前、奥左から常座(名乗座)・大小前・笛座前と呼び、立ち役が演技をする際の位置取りの目安としている。さらに舞台下には大きな甕が口を上にして様々な向きに埋められており、足拍子を踏んだときにその音を複雑に反響させて、拍子に深みを出す役割を果たしている。
現在の本舞台は、板目を縦方向にして張られているのが普通だが、古くは板目が横方向になっている舞台もあったようである。
柱
本舞台の四隅にある四本の柱のこと。見所から向かって手前側左を角柱(目付柱)、同右を脇柱、奥側左をシテ柱、同右を笛柱という。
現在では、能舞台の多くは能楽堂と呼ばれる建物の中にあり、柱は能舞台の意匠としての屋根を支える役目を果たしているが、古くは能舞台は屋外にあるのが通常であったので、まさに雨露をしのぐための屋根を支える役割を担っていた。
柱は屋根を支えるのが最も基本的な役割だが、能の上演に際しては、能面を着けて極端に視界の狭まった役者が、自分の立ち位置や進行方向を確かめるための目安としても機能している。また笛柱には、《道成寺》を上演する時に、吊るした鐘の綱を括り付けるための丸環が取り付けられている。
橋掛り
橋掛りとは
本舞台と鏡の間をつなぐ橋状の空間(実際には舞台側は後座に接続している)を、橋掛りと言う。両側には欄干がしつらえてあり、本舞台と同じく屋根が掛けられている。
演者の登退場の通路としての役割
橋掛りは、第一に、役が登退場するための通路としての用途を持っている。能の上演者のうち、立ち役(アイを含む)と囃子方は必ずこの橋掛りを通って登場する。作り物なども、大掛かりなものは後見が橋掛りを通って舞台へ出す。
舞台への通路に関しては、舞楽の舞台に本舞台へ続く通路があったり、相撲の土俵に東西の花道があったりすることなどから、東アジアの舞台は、古来、通路が付属しているのが普通であったと推測される。能の橋掛りも、舞台には通路が付いているものだという認識によって、自然と設けられたものと考えられる。
橋掛りと本舞台との角度
橋掛りは、現在では、正面から向かって左側にあり、本舞台に対して真横にではなく、やや後方から手前の方へ角度を付けて設置されている。これは舞台に奥行きがあるように見せるための工夫であり、演技の際にも、遠くから現れてくるように見せるといった効果がある。
室町時代の資料には、橋掛りが本舞台の真後ろに付いた能舞台の図が残っており、当初は、演者が橋掛りを通って正面へ向かってまっすぐに登場するのが普通であった可能性がある。なお、現在残る最古の能舞台とされる、西本願寺の北能舞台の橋掛り(十六世紀後半のものとされる)は、現在と同様の角度に付いており、当時の能舞台はすでに現在の一般の能舞台に近い形状であったと推測される。
橋掛りの演出上の活用
能の演技の際に、橋掛りの欄干に足を掛けたり、橋掛りを屋外、本舞台を屋内に見立てるような場合がある。また、舞事・働事などの中で、通常の演出に替えて、演者が本舞台だけでなく橋掛りの空間まで用いる演出上の工夫もある。とくに、江戸中期の観世大夫、観世元章は、橋掛りの空間を活用する演出を多く編み出し、それ以後、橋掛りの役割は大きく広がった。このように橋掛りは、舞台への通路であることのほかに、現在では演技空間の一部としても機能している。
地謡座
見所から向かって、本舞台右側にあるせり出した場所を言う。能の地謡方がそこに座して歌うことに由来する名称である。ただし、地謡座の手前側は、ワキやワキツレが曲の途中で座す場所であり、そこは地謡座とはいわずに、特に脇座という。
室町時代には、舞台には地謡座はなく、地謡方は現在の《翁》の地謡のように、囃子方の後ろに座していた。舞台下に座していたこともあるという。当時は地謡専門で舞台に出ている役者は少数で、立ち役のワキが地謡のリーダーを兼ね、ワキツレが地謡の補佐を兼ねるのが普通で、全体として舞台に出る人数は少なかった。しかし近世に入り、地謡を専門に担当する役者が整備されたり、また興行場所が広くなって謡のボリュームを上げる必要が生まれてきたりして、一曲に登場する地謡方の人数が増加した。その結果として地謡のリーダーであるワキのいる場所の近くに、多くの地謡方が座すことのできる地謡座が誕生したものと推測される。
鏡板
後座後方にある老松の描かれた羽目板のこと。老松の絵は奈良春日大社にある影向の松を模したものとする説がある。
鏡板の老松の絵は、鑑賞者には、どの曲の上演の際にも背景のように見えるが、実際に各曲の舞台装置として松があるという意味ではなく、曲の内容とは無関係の、舞台の装飾的なものとして存在している。
室町時代後期、観世宗節の頃に、能舞台に鏡板が張られるようになったが、それ以前には鏡板はなく、四方が吹き抜けの状態であった。
鏡板は現在では、鼓の音を反響させ、その音に深みを与える音響装置としても機能しており、囃子方の演奏の一助となっている。
鏡の間
橋掛りの幕の奥にある空間をいい、楽屋で装束を着けた立ち役が、姿を整えるための大きな鏡が壁にしつらえてあるところから、こう呼ばれるようになったと考えられている。
シテやツレは、この鏡の前で葛桶に腰掛け、面を掛ける。このように鏡の間は、最後の身ごしらえを整えるための場所であるが、全ての身ごしらえを整えた役者が、幕に掛かる前に精神を集中させる場所でもある。
また囃子方が舞台に出る前のお調べも、この鏡の間で行われる。
《翁》が上演される時には、この鏡の間に翁飾りと呼ばれる祭壇をしつらえ、全ての役者が集まり、お調べの後に杯事が行われる。鏡の間は能の世界で最も神聖な空間といえるかもしれない。
鏡の間の幕口のすぐ右側には、舞台や見所を見渡すことのできる櫺子窓があり、物見窓・奉行窓・あらし窓などと呼ばれる。後見は橋掛りを歩むシテを、この物見窓から見守り、シテが本舞台に差し掛かると、切戸から舞台に入り後見座に着く。
見所
能の世界では観客席のことを見所という。見所は.本舞台{ほんぶたい}正面から橋掛りを囲むようにしてあり、本舞台の前を正面、橋掛りの前を脇正面、その間に挿まれた所を中正面という。さらに、まれにではあるが、地裏と呼ばれる、地謡座の後方に見所を備えた能楽堂もある。また、二階席を設けた能楽堂もある。
現在の能楽堂の見所は、ほとんどが椅子席で、すり鉢状に後列が高くなっており、鑑賞者への配慮がなされている。江戸時代には畳敷きや桟敷席が普通であった。現在でも、東京の銕仙会能楽研修所舞台や、京都の大江能楽堂、大阪の山本能楽堂など、今でも見所が畳敷きや桟敷席になっている能楽堂もある。
切戸
本舞台後方、後座の右隅にある出入り口。切戸口ともいう。また斬り組みのある能で、斬られた役者が切戸を通って退場することから、臆病口ともいう。
能が演じられるときは、地謡方や後見が、切戸を通って舞台に出る。これは、地謡や後見が、あまり目立たない裏方的な存在だからである。また仕舞や一調などが上演されるときは、それに関わる全ての役者が切戸から登場する。これはそれらの演式が舞台演劇としての能に対して、略式のものであるためであろう。
切戸にはもう一つ、忘口という別称があるが、そこからの立ち役の出入りが観客に意識されにくいことに由来する命名であると推測される。
忘口に関連して、たとえば《土蜘蛛》のツレとトモは、初同のときに静かに切戸から退場する。これは場面が転換してその人物がその場にいなくなる場面を、目立たないように作るためである。また《放下僧》や《望月》のワキが、脇座に笠を残して切戸から退場するのは、仇討ち場面の具体化を避ける工夫だが、その退場は演劇としての筋における退場とは異なっている。これらの例は、それぞれの役の舞台からの退場を、幕からではなく切戸から行って、目立たせないための工夫である。
階
本舞台手前の真中に付けられた階段。舞台と見所とを隔てる白洲を渡るように掛けられていることから、白洲梯子とも言う。階は、江戸時代に、能奉行が楽屋で待つ役者に向かって御能開始を告げるため、舞台に上がる際に用いられた。しかし現在では、実際の演能に際して、通常、階が用いられることはなく、江戸時代に形式化した舞台意匠の名残として存在している。
現在、階は玄人の演者が素人の弟子に稽古をするときに、舞台に上がるための階段として用いられる。また、演能中に不測の事態で舞台から落ちた役者が、演技を続けるためにもう一度舞台に上がるときに、階を使うといったこともある。
江戸時代には、演出として舞台から白洲に飛び降りた役者が、階から舞台に戻ったという話が伝わっている。現在の能の演出からは想像しがたいことである。
幕
揚幕とも呼ばれ、橋掛りと鏡の間を隔てるように吊り下げる。通常、唐草模様が織られた五色(白青赤黄黒)の緞子をつなぎ合わせて作られており、裾の両端に結び付けられた竹竿を用いて上げ下ろしする。
幕を全て上げることを本幕といい、ほとんどの立ち役は、この本幕によって舞台に登場する。幕を上げる時に、立ち役は「お幕」という合図を後見に送る。その声は、たとえば鬼神などに扮した時は鋭く、天女などに扮した時はゆったりとしており、後見もその位に合わせて幕を上げる速さを調節する。
幕を上げずに、右の方を手繰り上げるようにすることを片幕といい、囃子方や一部の間狂言を担当する狂言方は、通常片幕で舞台に出る。ただし《翁》が上演される時には、囃子方も狂言方も本幕で出ることになっている。
《船弁慶》などで、幕の裾をくるくると中ほどまで巻き上げ、幕の内にいるシテの姿を見せる演出がある。このような幕の上げ方を半幕という。
松
橋掛りの手前、白洲に植えられた三本の松のこと。本舞台に近い方から幕の方へ向かって、一ノ松、二ノ松、三ノ松という名称がある。さらに橋掛り後方、一ノ松と二ノ松の間、二ノ松と三ノ松の間に二本の松が植えられているのが正格とされるようだが、現在その例は少ない。
松は橋掛りに遠近感を作り出す工夫のために植えられており、一ノ松が最も背が高く、二ノ松、三ノ松と順に背が低くなっていく。
松は上記のような工夫以外に、立ち役の演技の目印としての役割も果たしている。また《羽衣》などでは、通常演出では本舞台に出した松の作リ物に、天人の羽衣に見立てた衣を掛けるが、特殊演出になると、作リ物を出さずに、橋掛りの松を三保の松原に生える松に見立て、そこに衣を掛ける。このように舞台装置としての役割を果たす場合もある。
正面
見所で、本舞台に向かい合った席を正面という。
たいていの能の鑑賞者は舞台が正面から見られるこの席を最も好む。正面からは、角柱(目付柱)に遮られることなく舞台での上演を鑑賞することができ、また橋掛りを含めた舞台全体を見渡すことができる。正面は役者にも鑑賞者にも、最良の席であると認識されており、企画公演などでは、座席料が最も高い。
中正面
見所で、正面と脇正面に挿まれた、笛柱と角柱(目付柱)を結ぶ対角線の延長線上に広がる席を中正面と言う。
中正面から本舞台を見ようとすると、真正面に屋根を支える角柱があり、その柱に遮られて、舞台をきっちりと見ることができないという難点がある。それゆえ、中正面は観客席の等級としては、最も下位に位置付けられている。
脇正面
見所で、橋掛りの前に位置する席を脇正面という。
この席では、本舞台を脇(側面)から見ることになる。脇正面からは、本舞台での演技を側面からしか見ることができず、また装束や面などもはっきりと見ることができないといった、鑑賞上の難点がある。しかし、幕に掛かった立ち役の「お幕」という掛け声が聞こえたり、橋掛りを静かに歩む立ち役の姿を間近に見ることができるなど、別な角度から能を楽しむことができる。
後座
本舞台後方にある場所。本舞台の板目が縦であるのに対して、板目が横になっていることから横板とも呼ばれる。後座は近世初期に設けられたもので、それ以前には存在しなかった。これは立ち役の演技空間を広く取るために生み出された工夫ではないかと推測される。
後座は、能の演技に直接用いられることはなく、囃子方が居並んで演奏する場所である。また見所から見て左奥は後見座と呼ばれ、二人ないしは三人の後見がそこに座して、シテの演技を見守っている。
《翁》が上演される際には、地謡方が、後座の囃子方の後ろに二列に座して謡う。現在の能で、後座に地謡方が座するのはこの《翁》だけであるが、地謡座ができるまでの間は、それが通常の形だった。つまり、《翁》は地謡の座する位置の古い様式を残しているのである。
玉砂利
橋掛り及び本舞台の下に、白洲と呼ばれる、舞台と見所を隔てる空間がある。そこには白い玉砂利が敷かれている。能の世界では白洲と玉砂利はほぼ同義に用いられている。
江戸時代には、舞台と見所は別棟で、その間に自然光が入る庭のような空間があり、そこに玉砂利が敷き詰められていた。そのような空間を設けたのは、演能の際に光を反射させ、舞台を明るく見せるための工夫であって、その名残が現在の白洲であると推測されている。
このような由緒を持つ玉砂利は、照明が発達した現代では特別な意義を持たないものになっている。能の演出では、《融》の汐汲みの場面で、白洲辺りの空間を、陸奥の塩釜に見立てることがあるが、それは例外的な用法である。
屋根
近代以前、能舞台は屋外にあり、その当時は屋根が雨露をしのぐ本来の役割を担っていた。しかし明治維新後の近代化で、観客席を備えた能楽堂と呼ばれる建物の中に能舞台が設置されるようになり、それまでの舞台様式をそのまま屋内に移した、つまり屋内にあるにもかかわらず屋根があるという、入れ篭式の建築物が出来上がった。したがって、現在の能舞台の屋根は、本来の機能は失っており、音響効果を助けたり、近代以前の能舞台の風情をしのばせたりする役割を担っている。
床下
本舞台・後座・橋掛りの床下には土が敷いてあり、そこには大きな甕が口を上向きにして、本舞台下に七個、後座下に二個、橋掛り下に長短により二から四個埋められている。これは音響効果をねらった工夫であり、そのために、上向きとはいっても、微妙な角度が付けて置いてある。演者が踏む足拍子が、空気の震動として甕の中に伝わり、それが色々な方向に反響することで、深みのある音を作り出すのである。