聖徳太子

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しょうとくたいし


画題

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解説

画題辞典

名は厩戸皇子、又豊聰耳皇子、上宮皇子という。後人其の徳行を尊び私に聖徳太子と称す、用明天皇第一の皇子なり、幼にして聰敏、好んで書を読む、稍々長じて一時能く十人の訴を聴くといふ。早く仏教を信じ、天皇病に罹る時、側に侍して三宝に祈誓し、又蘇我馬子と謀りて天皇をして仏に礼せしむ。後推古天皇立つに及び、皇太子となり万機の政を摂す。会々高麗の僧慧慈来朝するや、之に師事し五戒を受け、浮屠の号に倣ひて自ら勝鬘という。摂政中、冠位十二階を制し、又憲法十七条を定む、続いて蘇我馬子と共に天皇紀国紀及臣連伴造百八十部公民の本紀を撰す、実に我国史最初の官撰なり。二十九年斑鳩宮に薨ず、年四十九。一代に建立する寺院、四天王寺、法隆寺、中宮寺、橘樹寺、蜂岡寺、池後寺、葛城寺、元興寺、日向寺、定林寺、法興寺、等十餘寺あり、仏教の吾に興隆せるもの太子に負ふ所多きを以て、後世仏寺何れも太子の像を画き、或は木に刻して尊崇する所厚く、随って之を画けるものに名品多し、

就中阿佐太子の筆と伝ふる画像は、御物にして我邦最古の絵画と推すべきものなり、本と法隆寺絵殿に在りしといふ。聖徳太子絵伝は鎌倉時代のものにして四幅あり、同じく絵屏風、亦太子の御一生を画きしものにて王朝時代のものもあり、共に今に帝室御物となる。其他

山城仁和寺所蔵聖徳太子像一幅(鎌倉時代、筆者不明)、

大和法隆寺所蔵聖徳太子立像一幅(筆者不明)、

近江観音寺所蔵聖徳太子像一幅(筆者不明)、

近江成菩提寺所蔵聖徳太子像一幅(筆者不明)、

伊勢西来寺所蔵聖徳太子勝鬘経講讃図一幅(筆者不明)、

播摩一乗寺所蔵聖徳太子高僧像十幅(筆者不明)、

播厚鶴林寺所蔵聖徳太子像一幅(筆者不明)、

同寺所蔵聖徳太子絵伝八幅(筆者不明)、

常陸上官寺所蔵聖徳太子絵伝一巻(筆者不明)、

伊勢四天王寺所蔵聖徳太子像一幅(同)、

名古屋本証寺所蔵聖徳太子絵伝十幅(筆者不明)、

大和橘寺蔵聖太子絵伝(土佐光信筆)、

播摩斑鳩寺所蔵聖徳太子勝鬘経講讃図一図

等何れも国宝なり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

前賢故実

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用明天皇の第二子。用明天皇の皇后が禁中を巡遊していたとき、馬屋の前で苦痛なくして厩戸皇子を産んだ。厩戸皇子は、生まれてから直ぐ話せる人で、壮年になると同時に十人の訴えを聞いたことがあり、情け深くて、博識で仏の教えを愛した。曽て憲法十七条を作って天下に示した。推古天皇元年、厩戸皇子は皇太子に立てられた。推古天皇二十九年に斑鳩の宮殿で亡くなった。父母を亡くしたような百姓の泣き声は町中に響いた。俗世では厩戸皇子を聖徳太子と呼んでいる。

竹原井を遊歴していたときに、道端にある尸を見て厩戸皇子は歌を詠んだ。

いへならば いもがてまかむ くさまくら たびにこやせる このたびとあはれ

(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

聖徳太子、御名は厩戸皇子、また豊聡耳皇子、上宮皇子といふ、世に上宮法王、法主王とも称し、後その徳行を尊び聖徳太子といふ、用明天皇第二の皇子で御母は穴穂部間人皇后、はじめ皇后御懐妊の時、偶々出でて宮省を巡視し、馬官厩戸に至り太子を産み給ふ、因つて厩戸皇子といふ、長ずるに及び好みて書を読む、性最聡敏にして一時に能く十人の訴を聴き殆んど違ふ処がなかつたといふ。用明天皇いたく愛し給ひ宮南上殿に居らしめた、因てまた上宮厩戸豊聡皇子と称せらる、ある時、天皇瘡を患ひ給ふ、太子昼夜側に侍し三宝に祈誓し日響を絶たず、天皇因て仏に帰依せんとし給ふたが、まだ天皇にして仏を礼した例がなかつたので、群臣を召してその可否を議せしめられた、大連物部守屋、中臣勝海は之を不可とし、蘇我馬子は之を可とす、乃て豊国法師を宮中に延く、太子馬子の手を握り、三宝の妙理人之れを知らず妄りに異議を生ず、いま大臣心を福田に帰す、何の喜びかこれに若かむと宣はせられた、人之を守屋に告げたので守屋は兵を備へて自ら護つた。既にして天皇崩御せられ、嗣未だ定まらず、守屋ひそかに穴穂部皇子を立てやうとしたので、馬子は兵を派して皇子を弑し、太子と謀つて守屋を討たんとし給うた、時に太子は髪を額に束ね自ら軍後に従ふ、守屋の勢ひ極めて猛、太子乃て白膠木を以て四天王の像を作り、頂髪の中に置き、今放つ矢は四天王の放ち給ふ所と宣ひ舎人をして射さしめ給ふ、守屋その矢に中つて命を落した、後、推古天皇即位せらるゝに及び、太子を以て皇太子となし、万機の政を摂せしめ給ふ、高麗の僧慧慈の来朝するや、太子之れに師事し五戒を受け給ひ、自ら勝鬘と号し給ふ、十一年には冠位十二階を制し、明年また憲法十七条を定め給ふ、十三年、移つて斑鳩宮に在し、十四年には播磨に水田百町を賜ひ、二十五年更に湯沐邑を益し、東宮の俸常の二倍となつたが、太子これを悉くその創むる所の寺に施入せられた、二十八年には馬子と共に天皇記、国記及び臣連伴造百八十部公民の本記を撰せられ、翌二十九年病のため斑鳩宮に薨じ給ふ、御年四十九、磯長陵に葬り奉る。  (水鏡・大日本史其他)

絵画に現はれたる聖徳太子像及その絵伝等は極めて多い、主なものを掲げる。

阿佐太子筆  『聖徳太子御像』    帝室御物

秦致真筆   『聖徳太子絵伝』    同

筆者不明   『童形御像』      京都仁和寺蔵

尊智法眼筆  『太子勝鬘経講讃図』  大和法隆寺蔵

筆者不明   『同上』        播磨斑鳩寺蔵

土佐行光筆  『聖徳太子絵伝』    川合玉堂氏蔵

同      『太子馬上像』     四天王寺旧蔵

筆者不明   『太子御像及高僧』   播州一乗寺蔵

同      『絵伝八幅』      同 鶴林寺蔵

此の外彫刻には傑出せるもの極めて多い。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)