百万

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ひゃくまん


画題

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解説

東洋画題綜覧

謡曲の題名、古名『嵯峨物狂』又は『嵯峨大念仏』といふ、奈良の都の百万といふ女、失つた子の行方を尋ねやうとして狂ひ出で、つひに嵯峨の大念仏の場でめぐり逢ふことを作つた、出所は、『嵯峨大念仏縁起』といふ書に

奈良唐招提寺の円覚上人は和州服部の人なるが幼くて母に別れ迷ひ子となりしかば、所々にて融通念仏を施行して母に逢はん事を祈る、念仏に参集する人十万に満つる毎に上人供養せり、故に時の人之を十万上人と呼ぶ、或時嵯峨の清涼寺にて之を行ひしに一人の僧ありて母の行衛を教へしかば、終にめぐり逢ひ給ひし。

とある、十万上人の母故、百万と作者が名をつけたのではないかともいはれてゐる。一節を左に引く。

「奈良坂の、このてがしはのふた面、とにもかくにも佞人の、なき跡の涙こす、袖のしがらみ隙なきに、思ひ重なる年なみの、流るゝ月の影をしき、西の大寺の柳蔭、みどり子のゆくへ白露の、起き別れていづちともしらず失せにけり、ひとかたならぬ思ひ草、葉末のつゆもあをによし、奈良の都を立ちいでて、帰り三笠山、佐保の川をうち渡りて山城に井出の里、玉水は名のみして、影うつす面影、あさましき姿なりけり、かくて月日を送る身の、羊のあゆみいまの駒、足にまかせて行く程に、都の西と聞えつる嵯峨の寺に参りつゝ、四方の気色を詠むれば、花の浮出の亀山や、雲井に流る、大井河、誠に浮世のさがなれや、盛り過ぎゆく山桜、嵐のかぜ松の尾、小倉の里夕霞、立ちこそつゞけ小忌の袖、かざしぞ多き花衣、貴賎群集する此寺の法ぞたつとき。

そして、これを画いたものに、第九回帝展出品として堀井香坡の『百万』がある。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)