白楽天

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はくらくてん


総合

白楽天(はくらくてん)

脇能・老神物


あらすじ

 中国の詩人・白楽天は日本の知力を試せという勅令を受け、松浦潟までやってきた。そこで小舟に乗って釣りをしている漁翁と漁夫に出会う。すると漁翁は楽天の名前・渡来の目的を当て、楽天が目の前の景色を見ながら詩を作ると、直ちに和歌に翻訳する。老漁は日本では蛙や鶯までもが歌を詠むのだといい、舞楽の遊びをして見せようと言うと消えていった。

 老漁は、実は住吉明神の仮の姿であり、やがて気高い老体の神姿で現れ、舞を見せた後に多くの日本の神々と共に神風を起こし、楽天を中国へと吹き戻すのだった。


能絵 場面解説

「能楽図絵」*UP0920

 本作品の構図は一風変わっている。幕を境に、手前はワキ方と間狂言を配置して舞台上の様子を表している。一方、幕の内側では、間狂言の間に後シテに着替えているところである。壁には赤頭と黒頭が掛かっており、前後の能に使用のものであることが想像できる。大口を二人がかりで着付けているが、この大口は構造上一人では着付けられないため、必ず複数の人数で着付けなければならない。

 その傍らでは、前髪の少年が面箱から面を出そうとしている。この曲では、前シテは朝倉尉か笑尉、後シテは皺尉などを用いる。また、本作品の右部には「朝倉尉又ハ皺尉の類」と書かれている。はくらくてん


画題

画像(Open)


解説

画題辞典

白楽天ほ唐代の詩人なり。名は居易、字に楽天、香山居士と号す。貞元年中進士に挙げられ累遷して、刑部尚書となり、政仕して會昌六年卒す。七十五歳なり。憲宗皇帝最も之を優遇し、時事に対する進言概ね之を容れらる。されども当路に忌まれて志伸ぷる能はず、憲宗殁後愈々意を得ず。文酒に放意して自ら慰む。酔吟先生とは其の自ら称せし所の号なり。晩年仏に帰して葷を食にず。文と詩と共に秀で、其文は精巧、其詩は平易流麗、後世推して詩聖といふ。其詩文集白氏文集は平安朝頃に於て最も我国に行はれし所なり、狩野元信画く所(京都伊藤久郎衛門氏所蔵)あり。近頃小堀鞆音画くものあり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

支那盛唐の大詩人、名は居易、字は楽天。香山居士と号す。其先は太原の人、後、華州下邽に徙る、幼時から敏悟、文章に長じ、徳宗の貞元年中進士に擢んでられ、憲宗の元和元年制策に対して一等となり、左拾遺に遷り、尋で賛善大夫に転じたが、言禍によりて司馬に貶せられた、然もよく足るを知つて天を楽み敢て怨まず、既にして忠州刺史となり、穆宗の初年召還されて主客即中知制詰となり、文宗の時には秘書監を以て召され刑部侍部に遷り、刑部尚書に進み、宣宗の大元中、年七十五にして歿した、諡して文といふ。白楽天は元より官人としての栄達を望まず生命とする処は詩文にある、その作る処の詩実に三千八百四十首の多に達す、中にも『長恨歌』『琵琶行』『遊悟真寺』は支那文学中の雄篇たり、其集を白氏長慶集、又白氏文集といふ。晩年、老人の友を会して九老会を結んだことは、風雅の逸事として有名である。きゅうろう「九老」の項参照。

白居易字楽天、其先蓋太原人、貞元十六年書舎人、高郢下進士云々、会昌初致仕卒年七十六、自号酔吟先生、為之伝、暮節惑浮屠道尤其、経月不食葷、称香山居士。  (新唐書列伝)

白楽天を画ける作

狩野元信筆  京都伊藤氏蔵

小堀鞆音筆  第一回淡交会展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)