琴高

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総合

 漢・劉向『列仙傳』

琴高は趙の人である。よく琴を弾いたので、宋の康王の舎人となった。涓子や彭祖の術を実践し、冀州・碭郡の地方を放浪すること二百余年。のち、碭水に潜って竜の子を取ってくると言い遺し、かつ弟子たちと約束して当日はみんな潔斎して水辺で待ち、祭場を設けておくようにと伝えた。すると、果たして赤い鯉に乗ってあらわれ、水から出て祠の中に坐した。翌朝には多数の人がこれを見にやってきた。こうして一月あまり滞在していたが、再び水中に入って去った。(漢・劉向『列仙傳』巻上p48、平凡社1995年9月)

『太平廣記』

琴高者。趙人也。以鼓琴為宋康王舍人。行涓、彭之術。浮游冀州涿郡間。二百餘年。後辭入涿水中取龍子。與弟子期之曰。皆潔齋。候於水旁。設祠屋。果乘赤鯉來。坐祠中且有萬人觀之。留一月餘。復入水去。出列仙傳 (《太平廣記》卷四p24-25)

晋・干宝『捜神記』

琴高は趙(山西省)の人である。琴の名手で、宋の康王の舎人となった。涓彭の術を行い、冀州から涿郡(河北省)にかけて、二百年以上歩きまわっていた。その後、官を退いて涿水の水中にもぐり、竜の子を捕らえようと志し、弟子たちとつぎのように約束した。「明日、みな身をきよめて待つように」弟子たちが水辺に祠を設けて待ちうけると、果たして琴高が赤い鯉に乗って現われ、祠の中に坐った。一万人もの見物人が集まったが、琴高は一ヵ月間滞在してから、また水の中にはいって行った。(晋・干宝『捜神記』11.琴高p36 平凡社)

【出典】

橘守国『繪本直指寶』

奥村正信『絵本江戸絵簾屏風』


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