熊野

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本文中では、熊野の娘の侍従が上記に述べたエピソードの熊野にあたっている ように描かれているが、『日本地名大辞典 静岡県』、『日本女性人名事典』

池田宿の長者で、平宗盛に寵愛され都に伴っていた。 平家物語「海道下り」本文中ではこのようなエピソードが述べられている。

宗盛に寵愛された熊野は、故郷の母が病気のため宗盛に暇を請うが許されず、かえって花見の伴を言いつけられる。 酒宴が始まっても心の浮かぬ熊野は舞を舞うが、にわかに雨が降ってきて花を散らすのを見て、 「いかにせん都の花も惜しけれど馴れし東の花や散るらん」 (都の花も惜しまれますけれど、こうしているうちにも、 馴れ親しんだ東の花が散るのではないでしょうか) と和歌をよむ。 これを聞いた宗盛は熊野の心を哀れに思い暇を与えた。

このエピソードを典拠につくられたと言われているのが謡曲『熊野』である。






池田の宿の長者の娘→熊野(架空人名事典)

というように熊野の立場が異なっているが、 本文の記述


熊野と熊野の娘侍従(千手前)の区別がついておらず、






参考

架空人名事典 日本編

日本国語大辞典

能百番を歩く(下)ゆや


画題

画像(Open)


解説

画題辞典

熊野は遠江国池田の産にして、平宗盛が愛妾なり、或る時老母国に病めりとの報を得て暇を願ひ出でしも宗盛許さず、強ひて花見にと清水に伴はれ行きしが、仰に随うて一さし舞ふ、折しも落花の繽紛たるに。宗盛遽かに心解けて熊野に東に歸ることを許されたりとなり、事平家物語に出で、謡曲にもあり、日本絵画協會共進會に木村武山之を画く。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

熊野は紀伊国西牟婁郡にある、熊野本宮(熊野座神社)熊野新宮(熊野速玉神社)那智神社に別る、これを熊野三所権現、または熊野三山と称へる、本宮には伊弉諾尊、伊弉冉尊を祀り、新宮には伊弉諾尊の御子速玉之男神を祀り、那智には熊野座神の御祖、伊邪那美尊を祀る、本宮は崇神天皇十六年に建てられ、新宮は景行天皇の御世に創設せらる、中古以来僧徒等の当宮を掌るに至り本地垂迹の説に基き、こゝに本宮十二所権現新宮十五所権現、那智権現と唱へるに至つた、飛行、勧請、十万、子守、児宮、禅師宮、若王子、証誠殿、速玉結宮これを十二所権現とし、新宮の十五所はこれに奥御前の三神殿、(伊勢住吉出雲の三神)を加へたものである。  (仏教辞林)

熊野を画いた作は古来極めて多いが、近く左の作がある。

山口蓬春筆  『三熊野の那智の御山』  第七回帝展出品

古谷一晁筆  『熊野の奥』       第十回帝展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)


能の曲名、遠江池田宿の長者の娘、熊野は平宗盛に寵せられ久しく都に留つてゐたが、老母の病重く、熊野の下向を促すが宗盛は今年の花見の伴にと強いて許さないので、朝顔といふ侍女が、遥々老母の文を以て熊野を訪ふ、熊野は老母の命旦夕に迫るを知り、宗盛の前に出て母の文を読む、これを『文の段』といふ、かくて暇を乞ふのであるが、宗盛は許さない、やがて清水の花見に熊野は重い心を抱きつゝ酒宴の席に連り、舞を奏する中、たま/\花の散るを見て

いかにせん都の花も惜しけれどなれし東の花やちるらん

と詠じたので、宗盛至情に感じて暇を与へる。シテが熊野、ツレが朝顔、ワキ宗盛、トモ太刀持である。謡曲の末段を引く

「いかに熊野、一さし舞ひ候へ、「深き情を人や知る、「のう/\俄に村雨のして、花の散り候ふはいかに、「げに/\村雨のふり来つて花を散らし候ふよ、「あら心なの村雨やな春雨の、「ふるは涙か桜花、ちるを惜しまぬ人やある、「よしありげなることばの種、とりあげみれば いかにせん都の春もをしけれど、「なれしあづまの花や散るらん「げに道理なりあはれなり、早々暇とらするぞ、東に下り候へ、「何、御いとまと候ふや、「中々の事、とく/\下り給ふべし、「あらうれしや、たうとやな、是れ観音の御利生なり、是までなりやうれしやな、「是までなりやうれしやな、かくて都に御供せば、またも御意のかはるべき、たゞこのまゝに御いとまと、ゆふつげの鳥がなく、あづま路さして。……

『熊野』を画いた作に左の諸点がある。

森一鳳筆   『熊野清水』  神戸田村家旧蔵

下村観山筆  『熊野観花』  東京美術学校蔵

木村武山筆  『熊野』    日本絵画共進会出品

川辺御楯筆  『同』     宮田氏旧蔵

乾南陽筆   『同』     第十一回文展出品     

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)