源頼朝

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1147~1199   鎌倉幕府の創始者。初代将軍。源義朝の三男として生まれる。母は熱田大宮司藤原季範の女。熱田大宮司家は鳥羽法皇・待賢門院(鳥羽の中宮璋子)・後白河天皇・上西門院(鳥羽皇女統子)らに近仕するものが多く、父義朝もその縁で鳥羽法皇に寵を得て、仁平三年には下野守となった。保元の乱で、後白河方についていた義朝は出世し、平治の乱の際には頼朝も、義朝の嫡男の資格を以って初陣、藤原信頼・義朝らが一時政権を握ったとき従五位下、右兵衛権佐となった。しかし平清盛によって敗れた親子は翌永暦元年東国に逃れんとしたが、その途中頼朝は父の一行とはぐれ、美濃で捕えられ、京都に送られる。戦後処理策の中で当然斬首になるところを、一命を助けられ伊豆国に配流される。  伊豆ではその地の豪族伊東祐親・北条時政らの監視の下で約二十年間の春秋を送り、その間に時政の女政子と結婚した。  やがて治承四年、以仁王の平家打倒の令旨で(また一説によれば文覚が後白河上皇の意志を密かに伝えて頼朝に挙兵を促したともいう)、八月時政以下伊豆や相模の武士たちを糾合して兵を挙げ、まず平氏一門で伊豆の目代であった山木兼隆を討滅し、緒戦を飾った。ついで父の故郷である鎌倉を目指して東進したが、相模の石橋山で平氏方の大庭景親らの軍に阻まれ、また背後を伊東祐親に襲われたため、敗れて箱根山中に逃れ、軍勢が分散したなかで土肥実平らわずかの兵とともにひそかに海路安房国に渡った。この地で北条時政・三浦義澄らと合し、再起をはかるため上総介広常・千葉常胤らの協力を求め、上総・下総から武蔵に入り、はじめ平氏側に立った武蔵の畠山・河越・江戸以下多くの在地武士を配下に収めることに成功、ついに鎌倉に入りここを拠点とした。  頼朝の挙兵を知った平清盛はこれを討伐するため、維盛を総大将とする大軍を東下させたが、頼朝はこれを向かえ討つため軍勢を駿河国富士川に進め、川を挟んで平氏軍と対陣した。しかし一夜水鳥の羽音に驚き周章した平氏軍は、ほとんど戦わずに敗走した。この時頼朝は平氏を追って上洛の軍を進めんとしたが、千葉常胤らの諌言によりこれをやめ、東国の平定につとめ、まず頼朝に敵対した常陸の佐竹氏を討ち、上野の新田氏に服属を促し、また下野の小山氏以下有力武士の参向を得て、治承四年末には鎌倉を本拠とする一地方政権を確立した。そしてこのころ御家人統制機関としての侍所を設置し、和田義盛をその別当に任じた。その後頼朝の勢力は駿河から遠江へとのびたが、翌養和元年三月、尾張の墨俣川の戦において平氏の東征軍に敗れ、戦線は膠着状態となる。  一方で治承四年信濃に挙兵した源義仲が、信濃から越後へと進出し、北海道を制圧、寿永二年七月、平氏を追って上洛を果たした。しかしこの義仲は、都で後白河法皇との対立を招き、頼朝は法皇と結んで義仲の失脚をはかった。平氏の都落ちによって実質的に政権を握った法皇に対し、頼朝はしきりに画策したため、両者は急速に接近し、頼朝は東国沙汰権・東国軍事支配権を与えられるという内容の、いわゆる寿永二年十月宣旨を受けることに成功した。この宣旨の発給は、頼朝が実力で征服していた東国に対する支配権を朝廷から公認されたことを意味するとともに、その反面朝廷もまた内乱状態であった東国の支配を頼朝の力を媒介として回復したとことを意味する。この法皇と頼朝との密かな提携は、義仲の怒りを買い、十一月に義仲は法皇を幽閉したが、頼朝は弟の範頼・義経の軍を上洛させ、元暦元年正月、義仲を敗死させた。  そのころ西走した平氏は勢力を回復して、摂津の福原に前進陣地を構えていたが、法皇の命を受けた範頼・義経らは二月にこの平氏軍を攻め、海上に追い落とした(一谷の戦)。この戦いののち、範頼は鎌倉に帰り義経は京都にとどまり治安維持に任じたが、鎌倉では兵糧米や軍船の調達、西国武士招致などのため、約半年の間休戦状態を続けた。またこの間に幕府体制の強化につとめた頼朝は、元暦元年十月には公文所・問注所を設置した。やがて頼朝は範頼に命じて平氏追討のための軍を派遣、範頼軍は山陽道を西進して、文治元年に入ると豊後国に渡り、長門彦島を本拠とする平氏一門の背後を扼することに成功した。一方義経は、頼朝の意志を無視して検非違使左衛門尉に任官し、頼朝の怒りを招いたものの、再び平氏攻略のための出陣を命ぜられて屋島の平氏を急襲し、さらに海上を西走する平氏を追って三月には長門国壇ノ浦で平氏を滅亡させた。この連勝により頼朝は従二位に叙せられ、公卿に列したが、そのころから弟義経との対立が尖鋭化していった。その不和の裏には頼朝の瀬力伸張を牽制するため義経を利用せんとする後白河法皇の策謀があったとみられる。頼朝は刺客を京都に送り、義経を襲撃させたが失敗、ここに義経が謀意をかため源行家と協力して後白河法皇に強要し、頼朝追討宣旨を出させた。しかし義経のもとに集まった兵力は少なく、義経は都を立ち去る。一方この追討宣旨のことを知った頼朝は、北条時政以下の東国の大軍を京都に進め、その武威を示した。そこで法皇はこの宣旨を撤回し、逆に義経追討の院宣を出したが、頼朝は法皇の責任を追求し法皇に対し強い政治的要求を行い、これを承認させた。その要求のひとつは、親義経派の院の近臣数名を解官配流させ、また親頼朝派の十名の議奏公卿を推挙して彼らの合議による政治の運営を進め、あsらに九条兼実を内覧として政治を主導させる体制をつくることであり、これは法皇の独裁を抑止することを目的とした。また要求の第二は義経追討とこの時期の叛乱防止の具体策として全国的に守護・地頭を設置する勅許を得ることであった。さきに寿永の宣旨によって東国の支配は確立していたが、このたびは西国武士をも統率する体制が生まれたのである。やがて義経が奥州藤原氏を頼ったとき、頼朝はしきりに藤原氏に圧力をかけ、ついに文治五年藤原泰衝は義経を討った。しかし頼朝は藤原氏がこれまで義経を庇護してきたのを責め、みずから大軍を率いて奥州征討の途につき、藤原氏を滅ぼした。この結果陸奥・出羽両国も幕府の直轄地域となり、頼朝の支配は全国的なものとなり、「天下兵馬の権」が彼の手に帰した。また治承四年以来の源平争乱に基づく全国的内乱は十年ぶりに終息して平和が回復し、同時に義経問題を契機として激化した法皇と頼朝との対立が解決し、朝幕関係が変化した。それまで再三法皇から上洛をもとめられていた頼朝であったが、奥州制圧に成功したのち建久元年ようやく上洛し、法皇と対面、権大納言右近衛大将に任命された。しかし頼朝はまもなくこの官を辞して鎌倉に帰った。そのころから法皇と頼朝の対立は緩和し、頼朝が法皇に接近する姿勢を示し、それに伴い兼実の利用価値が低下したためか、頼朝と兼実との関係が疎遠となりはじめる。またそのころから頼朝の長女大姫を入内させようと考え始め、法皇の側近の源通親や丹後局らに近づいていった。  建久三年後白河法皇が政治の実権を握り、そのはからいで頼朝はかねてから望みながら法皇に拒否されてきたところの征夷大将軍に任命された。しかしこれはもともと奥州討伐のために必要であった官職であり、藤原氏滅亡の今は実質的には無意味な官職である。そこで頼朝は建久五年に征夷大将軍辞任を申し出たが、朝廷はこれを受理しなかった。建久六年頼朝は東大寺再建供養に出席することを名目に、妻の政子や大姫やを伴って再度上洛した。この時入内計画が病気などのため延引していた大姫を丹後局にひきあわせ、人内工作を促進した。当時兼実の全盛下で法皇の旧側近は失意の立場におかれていたが、入内問題とからんで頼朝が彼らに接近したため、彼らの立場が有利となるきざしが見えた。  頼朝が鎌倉に帰って間もなく、京都では後鳥羽天皇の中宮任子(兼実の女)が皇女昇子を生み、ついで通親の養女在子が皇子為仁を生んだため、通親の政治的地位が強化し、彼の画策により建久七年任子は宮中を追われ、兼実は罷免された。頼朝はこのような京都の情勢を黙視しながら大姫入内のことが有利に展開することを期待していたが、この大姫は建久九年に没し、また兼実の失脚により京都の政治についての頼朝の影響力が弱体する結果となった。建久九年後鳥羽天皇が譲位し、為仁が四歳で即位したため、外祖父の通親の権勢が強まる。この即位に際し、頼朝はこれに強く反対したが、その主張は無視されてしまった。しかし大姫の死後頼朝は次女の三万の入内に執念をまやし、大いに画策したため、ついに三万は女御の称号を与えられ正式の入内を待つばかりとなった。頼朝は三万を伴って上洛し、公武の関係をも刷新せんとの意図を持ったが、その実現を見ないうちに」、建久九年末病に罹り、翌正治元年正月に出家し、同十三日で死去した。『吾妻鏡』によれば、頼朝は、稲毛重成が亡妻(政子の妹)の追福のため相模川に架橋したとき、その落成供養に出席した帰路、何らかの理由で落馬したのが死因とされる。(『国史大辞典』)みなもとのよりとも


画題

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解説

(分類:武者)

画題辞典

源頼朝、世に鎌倉右大将、右幕下、又鎌倉殿などの稱あり、源義朝の第三子なり、幼にして器局あり、最も父義朝の愛を受く、保元の乱、年十三にして父兄と共に大内に拠る、軍敗るゝに及び、東国に走らんとして途に平頼盛の家臣彌兵衛宗清に捕へられ、一たび六波羅に致されしが、宗清憐みて清盛母池禪尼に請ふ所ありしを以て、死を赦されて伊豆蛭小島に流さる、初め伊束祐親の館に在り、後北條時政の館に依る、其女に通ず、女は即ち政子にして後年の尼将軍なり、治承四年以仁王の平家迫討の令旨到るに及び兵を擧ぐ、石橋山に一敗して海路安房に逃れしが、壽政三浦義澄と安房に至り之に附するに及び、勢稍々張る、帥ち檄を諸国に移して源氏恩顧の兵を募り、進んで居を相棋鎌倉に占む、兩弟範頼義経來り附するに及び、又之を遣りて平家の軍を富士川に走らし、源義仲を京都に破り、更に平家を壇の浦に討尽す、次いで弟義経が武功を恃みて横暴ありと聴くや、大に怒りて之れが追討を朝廷に訴へ、その免れ隠るゝや、之れが捜索を名として諸国の公田荘園を論ぜず守護地頭を置き、諸州に兵根米五升を課す、是に於て天下兵馬の権頼朝に歸し、武門政治の端を啓く、次いで朝廷の政治に関渉し、議奏十人を置き、朝臣の任免賞を擬し、藤原兼實を以て内覧となす、次いで奥州藤原泰衡が義経を容れたるを難じて大擧自ら之を征して奥羽を平定す。建久元年京都に朝し、権大納言右近衛大将を拝す、翌年鎌倉に歸るの後、政所問注所、侍所等を設定し、幕府の組織を完成す、六年二月東大寺の落慶供養に臨み、旧年十二月相模川架橋供養に臨み、歸路馬より落ちて病を得、正治元年正月薨ず、頼朝為人面大にして身短く、風度温雅音吐亮朗、沈毅にして度量あり、然れども猜忌深くして骨肉功臣を戮し、羽翼を殺ぎたるは、折角に源家の基を作りながら外威北條氏の為めに権を奪はるゝに至りし所となす山城神護寺所蔵頼朝像は藤原隆信筆と伝ふる所にして国宝なり、その他歴史画として画かるる所多し。

(『画題辞典』斎藤隆三)

前賢故実

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(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

世に鎌倉右大将とも鎌倉殿ともいふ、義朝の第三子、母は熱田宮司藤原季範の女、幼時より器局あり、義朝他の子より勝れて之を愛した、保元の乱起るや従五位下右兵衛権佐に補せられ父兄と共に大内に拠つた、時に年十三、軍敗るゝや義朝に従つて東国に赴いたが道を失つて父と別れ遂に平宗清に捕へられ、六波羅に送られたが、宗清之を憐み池禅尼に命を請ひ釈されて伊豆蛭小島に流さる、尼戒めて僧たらしめやうとしたが頼朝聴かず途に就く、時人これを見て虎を野に放つ如しといつた、伊豆に至るや清盛は伊東祐親や北条時政をして監視せしめたが、頼朝は祐親の家にあつて其の女に通じ一子を生ましむ、祐親怒つて其女を幽し頼朝を殺さうとしたので頼朝は遁れて時政に拠つたが、またその女政子と通じた、併し時政は敢へて之を問はず、治承四年以仁王、平氏を討たんとして源氏の将士を召すや頼朝機至れりとし時政と謀つて兵を挙げたが、石橋山に破れ危く命を全うし真鶴崎より安房猟島に逃る、時政、三浦義澄等と安房に赴き頼朝と会し勢を得、檄を発して兵を集め進んで鎌倉に居を占め、更に長駆平氏の軍を富士川に破り、寿永二年には木曽義仲と和して平氏に対す、義仲平氏を北国に破り京師に迫つたので、平氏は安徳天皇を奉じて西国に奔つた、开で頼朝は平氏が奪つた神仏の田地や公卿の領田等を悉く本主に帰せしめて人心を収攬し、平氏の党類でも降るものあれば悉く宥した、三年、義仲京都に暴威を振うや範頼義経を遣はして義仲を亡ぼし、文治元年夏に二弟をして平氏を壇の浦に亡ぼした、此間義経と隙を生じ、義経奥州に入つて藤原泰衡に拠るや、命を発して泰衡に義経を討たしめ、更に奥州を平定し建久元年十一月勅命によつて京都に入り後白河法皇、後鳥羽天皇に拝謁し権大納言、右近衛大将を兼ねたが、十二月両職を辞し、鎌倉に幕府を開いて征夷大将軍となり、武家政治こゝに始まる、六年三月東大寺落慶に臨み、九年稲毛重成の相模川に架橋して供養を営むや頼朝之に臨み帰途馬より落ちて病を得、正治元年正月病革り等で薨ず。  (大日本史)

頼朝の事跡中、石橋山に破れ洞窟に匿れて危き一命を助かりし事、俗説の由比ケ浜の放鶴等、図せらるゝもの極めて多い。

     洞窟の頼朝

兵衛佐殿は土肥杉山を守て掻分掻分落給ふ、伴には土肥次郎実平、北条四郎時政、岡崎四郎義実、土肥弥太郎遠平、懐島平権守景能、藤九郎盛長、已下の輩、相随て落給ひけるを、大場曽我案内者として、三千余騎にて追懸たり、杉山は分内狭き所にて、忍び隠るべき様なし、田代冠者信綱は大将を延さんとて高木の上に昇て引取々々散々に射る、敵三千余騎田代に被防て左右なく山にも入らざりけり、其隙に佐殿は鵐〈とび〉の岩屋と云谷におり下り見廻せば、七八人が程入ぬべき大なる臥木あり、暫く此に休て息をぞ続給ひける、去る程に御方の者共多く跡目に附いて来り集る、爰に佐殿仰けるは敵は大勢也、而も大場曽我案内者にて山踏して相尋ぬべし、されば大勢悪かりなん、散々に忍び給へ、世にあらば互に尋ねたづぬべしと宣へば兵者我等既に日本国を敵に受たり遁べき身に非ず、兎にも角にも一所にこそと各返事申しければ、兵衛佐重て宣ひけるは軍の習、或は敵を落し或は敵に落さるゝ是定れる事なり、一度軍を敵に被敗永く命を失ふ道やはあるべき、爰に集り居て、敵にあなづられて命を失はん事、愚なるに非や、昔範蠡不佝会稽之恥、畢復勾践之讐、曹沫不死三敗之辱、己報魯国之羞此を遁れ出で、大事を成立てたらんこと兵法には叶ふべけれ、いかにも多勢にては不可遁得各心に任て落べし、頼朝山を出て安房上総へ越ぬと聞えば、其時急尋来給ふべしと、言を尽て宣へば、道理遁れ難しと各思々にぞ落行ける、北条四郎は甲斐国へぞ越にける、兵衛佐殿に相従て山に籠ける者は、土肥次郎実平、同男遠平、新開次郎忠氏、土屋三郎宗遠、岡崎四郎義実、藤九郎盛長也、兵衛佐は軍兵ちリ/゙\に成て、臥木の天河に隠れ入にけり、其日の装束には赤地の錦の直垂に赤威の鎧着て、臥木の端近く居給へり、すそ金物には銀の蝶の丸をきびしく打たりければ殊にかゞやきてぞ見えける、其中に藤九郎盛長申けるは、盛長承り伝へ侍り、昔後朱雀院御宇天喜年中に、御先祖伊予守殿、貞任宗任を被責けるに、官兵多く討れて落給ひけるに、僅に七騎にて山に籠給ひけり、王事毋監終に逆賊を亡して四海を靡し給ひけり、今日の御有様昔に相違なし、吉例也と申ければ、兵衛佐憑もしく覚めして八幡菩薩をぞ心の内には念じ給ひけり。  (源平盛衰記)

頼朝の画かれた作左の通り。

伝隆信筆   源頼朝像(国宝)  京都神護寺蔵

小堀鞆音筆  『頼朝初陣』    横沢清蔵氏蔵

前田青邨筆  『洞窟の頼朝』   第十六回院展出品

渡辺莱渚筆  『頼朝』       第二回文展出品

安田靫彦筆  『黄瀬川』     第廿八回院展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)