沢庵

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たくあん


画題

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解説

東洋画題綜覧

沢庵和尚、名は宗彭、別に東海暮翁と云ひ冥子と云ふ、秋庭綱典の子、但馬出石の人、十歳郷の浄土宗唱念寺に投じて沙弥となり、十四歳臨済宗勝福寺に入り希先和尚に師事し、山城大徳寺の董甫の郷に来るに会し、随侍して大徳寺に至り妙心寺の愚堂和尚に参請し、後ち大和に遊び教義を学習し、且つ和泉に至つて文西一凍の諸和尚に参請し、慶長九年八月四日一凍より印可を受け、同十一年大徳寺の首座となり、後、和泉の南宗寺に住し、十四年三月玉甫等の推挙により、勅を拝して大徳寺に住したが僅か三日にして辞し和泉に還り、後、京都に入り大僊庵に住した、近衛信尹、細川忠興、浅野幸長等帰依するもの多く、次で大和、和泉地方に遊歴し詩歌を吟詠したりした。烏丸光広卿屡々書を贈り、和尚亦光広より文学上の教を受けた。元和四年三月大徳寺住持義峰退隠し後住に関して議論があつたが和尚等は極力正隠を推し、同年四月勅あつて正隠は住持となり古例によつて紫衣を賜つたが、翌年に至り幕府は正隠の開堂を法に違ふものとし京都所司代をして厳責せしめた、和尚百方陳弁したが幕府聞かず、却つて和尚及び玉室江月等を江戸に召して詰問し七月廿五日和尚を出羽の上山に配流し正隠の紫衣まで奪つた、和尚は上山に送られ山中に春雨庵を営み屏居したが九年八月許されて江戸に到り駒込に住んだ、寛永十一年七月大徳寺に帰り、二条城に入つて将軍家光に謁し一度但馬に帰り、尋で家光の召により江戸に出で柳生宗矩等の帰依を得、寛永五年家光品川に東海寺を建立す、和尚入て開山となり十六年四月開堂の盛典を挙げ後、京都に上り上皇の勅を拝し宮中に宗典を説き、正保二年十二月十一日東海寺に入寂した、年七十三。  (国史大辞典)

沢庵和尚は茶道に精しく書に秀で其墨跡は極めて珍重さる、画像は堺の祥雲寺にあり、国宝に指定さる。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)