毛利元就

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もうりもとなり


画題

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解説

画題辞典

毛利元就は戦国時代に於て中国に雄視せし英雄なり、父を弘元といふ、世々安芸国高田郡を領す、兄興元早世の後を承けて郡山城主となり、天文二年従五位下に叙す、是より先、毛利氏は尼子氏の附属なりしが、元就に至り尼子晴久と絶ちて大内義隆に属し、尼子氏の兵を破る、尋いで義隆の陶隆房に獄せらるゝや、元就義軍を擧げ、厳島に戦つて隆房を殺し、績いてその與黨大内義長内藤隆世を討ち、遂に防長芸の三州をその手中に収む、實に弘治元年なり、尋いで石見を平定し、更に尼子氏を雲州に攻め、永藤九年之を降し、途11坤図の大半をその有となす、元亀二年病に罹り、六月十四日年七十五を以て郡山城に卒す、元就勸王の志厚く、皇室衰微の際正親町天皇践祚後久しく即位の禮を擧ぐる能はざるを歎き、米千石を献じてその資を助けたることあり、菊桐の紋章はこの時叡慮によりて賜はりたる所なり、又元就幼年十三にして厳島神社に詣つ、歸来侍臣を招きて間うて曰く、汝等何をか祈ると、侍臣答へて曰く、郎君の安芸に主たらんを祈ると、元就曰く天下に主なるを願ふて僅に一方に主たるべし、一国に主たるを願ふものは其成る所知るべきのみ、汝等何ぞ吾が為めに天下に主たるを祈らざると、衆その大志に驚嘆すといふ、その厳島参詣の一事は古木屢々画題たり、又元就死に臨み、其子隆元以下三子を病褥に召し、一矢を授けて之を折らしめ、更に数矢を一括して授けてその折る能はざるを見て。共同の力の大なるを説き、数子親睦協力事に當るべきを戒めたりといふはもと支那の故事にして、捏造の説なりといふものあるも、古来教訓の画題として歴史画責家の屢々筆する所たり、元就画像は毛利侯爵家所蔵一點、出雲鰐淵寺所蔵一點あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

戦国時代の武将、幼名を松寿丸、長じて少輔二郎といふ、弘元の二男、世々安芸国高田郡を領した、初め兄興元早世し、其子幸松丸また夭死して嗣子がない、元就弟就勝と遺領を争ひ将軍足利義植に訴へたので、将軍本領安堵の状を元就に下した、是に於て郡山城に入り宗統を継ぎ天文二年九月従五位下に叙し左馬頭に任ぜられた。是より先、毛利氏は尼子氏に属してゐたが、天文三年尼子勝久と絶ち大内義隆に属し同九年晴久の兵を郡山城下に伐ち威名漸く高く、既にして義隆の陶隆房に弑せらるゝや、義兵を挙げて厳鳥に隆房を亡ぼし進んで岩国城を抜き若山城を陥れ転じて松ケ崎城に大内義長、内藤隆世を討ち防長芸全く元就の有に帰した、時に弘治元年十月であつた、永禄元年に至るや更に兵を山陰に進めて益田、小笠原、福屋、本荘等の豪族を降し中国を統一するに至る、元就勤皇の志厚く、正親町天皇御即位に際しては米千石を上つて大礼の挙行に奉仕したので叡感斜ならず詔して大膳大夫に任じ菊桐の記号を賜ひ、陸奥守に任ぜられ、次で尼子氏と戦を交ふること九年、これを降して更に豊前にまで軍を進めたが、元亀二年病に罹り六月十四日郡山城に卒す、年七十五、詔して正三位を贈られた、元就宏度あり又、和歌を善くした、その幼時従者と共に厳島に詣で、従者の神前に祈願するのを見、汝何事を願つたと聞くと、従者は君の安芸の領主たらんことを祈り奉つたと答ふるや、何故に天下の主たることを祈らなかつたかとたしなめ従者をして舌を巻かしめた逸話や、臨終に其子を呼集め矢を折つて兄弟の団結を諭した物語など人口に膾炙せられ教訓画としてもよく画かる。

山川永雅筆  『毛利元就厳島詣』  第十一回文展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)