李白

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総合

【出典】

王世貞『有象列仙全傳』

林守篤『画筌』

近世視覚文化を読み解くりはく


画題

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解説

画題辞典

「りたいはく」(李大白)を見るべし。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

李白、字は太白、唐代の大詩人、その詩は高妙にして神韻の磅礴たるを以て称せらる、伝は『列仙全伝』にもあれば、『唐書文宛列伝』にもあるが、『唐翰林李太白詩序』はよくその面目を伝へて居る、曰く

李白、字は太白、隴西成紀の人なり、涼の武昭王暠が九世の孫、珪組に蝉聯して世々顕著為り、中葉罪に非ずして条先に謫居す、姓と名とを易ふ、然れども窮蝉より舜に至りて五世、庶と為りて累世大いに曜かざることも亦歎ず可し、神竜(唐の中宗の年号その元年は、薜仲邕の李太白年譜によると李白八歳の時に当る、疑ふべし)の始め逃れて蜀に帰りて復た李樹を指して伯陽を生む、驚姜の夕べ長庚(太白星)夢に入る、故に生れて白を名とし、太白を以て之に字とす、世に太白の精と称すること之に得たり、非聖の書を読まず、鄭衛の作を為るを恥づ故に其の言多くは天仙の辞に似たり、凡て著述する所の言、諷興多し、三代より以来風騒の後屈宋を馳駆し、揚馬を鞭撻して、千載独歩するは唯公一人のみなり、故に王公風に趨き、列岳軌を結んで群賢翕習すること鳥の鳳に帰するが如し、盧黄門が云く、陳拾遺(子昂)横まに頽波を制して天下の質文翕然として一変す、今朝に至るまで詩体尚ほ梁陳宮掖の風有り、公に至りて大いに変じ地を掃つて併せ尽す、古今の文集遏つて行はれざれども、唯公の文章は横まに六合を被ふ、力造化に敵すと謂ひつ可き歟と、天宝中皇祖詔りを下し徴して金馬に就き輦を降りて歩迎すること綺皓を見るが如し、七宝の牀を以て食を賜ひ、御手に羹を調へて以て之に飯せしめ、謂つて曰く、卿は是れ布衣なれども、名朕が為めに知らる、素より道義を畜ふに非ずんば何を以てか此に及ばんと、金鑾殿に置かれ、翰林の中に出入して問ふに国政を以てす、潜かに詔誥を草して人知る者無し、醜正の同列能を害し謗りを成して格言入らず、帝用つて之を疎んず、公乃ち跡を浪りにし、酒を縦まにして以て自ら昏穢す、詠歌の際だ屡東山を称す、又賀知章、崔宗之等と自ら八仙の遊を為すに公を謫仙人と謂ふ、朝列謫仙の詩を賦すること凡て数百首、多くは公の意を得ざることを言ふ、天子其の留むべからざるを知つて乃ち金を賜うて之を帰す、遂に従祖陳留の採訪大使孝允に就き、北海の高天師に請うて道籙を斉州の紫極宮に授かり将に東のかた蓬莱に帰らんとす、羽人に仍りて丹丘に駕するのみ、陽氷試みに当塗に絃歌す、心に好む所に非ず、公遐かに我を棄てず、扁舟に乗じて相顧みる、当に冠を挂くべきに臨んで又公疾丞かにして草藁万巻を手づから集めて未だ修めず、枕上より簡を授けて余をして序を為らしむ、関睢の義を論ずることは始めて、卜商を愧ぢ、春秋の辞を明にすることは終に杜預を恥づ中原事有つてより公地を避くること八年なり、当時の著述十にして其れを喪ふ、今存する所の者は皆之を他人に得たり、時に宝応元年十一月(太白卒せる(同年同月)乙酉なり。  (李太白詩選に拠る)

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)