木曽

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きそ


画題

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解説

東洋画題綜覧

(一)木曽は信濃国の地名で、木曽川の流域、峡谷をなし絶壁そゝり立つ、これに一路を通じたるもの所謂木曽街道で、これに、洗馬、本山、贄川、奈良井、薮原、宮越、福島、上松、野尻、須原、三留野、妻籠、馬籠、落合の十四駅があり、徳川時代には福島に関所、贄川と妻籠に番所を置いて警戒した、峡谷には名勝奇景多く、寝覚の床桟道最も名高く、御嶽、駒ケ嶽も近く聳え、又、木曽八景も撰まれてゐる曰く

寝覚夜雨、桟道朝霞、駒嶽夕照、与川秋月、風越晴嵐、小野瀑布、御嶽暮雪、徳恩寺晩鐘

これである、寝覚床を中心に画かるゝもの極めて多い。殊に広重の木曽街道名所は世に聞え、近く左の作もある。

野添平米筆  『木曽の春』    第十四回帝展出品

川村曼舟筆  『微雨』(寝覚)  紀元二六〇〇年奉祝展出品

(二)能の曲名、木曽義仲信濃から起つて平家を討たんとする陣中で、願書を八幡宮に納め出陣を祝ふことを作つた、シテは太夫坊覚明、ツレが木曽義仲、同池田次郎、従兵、処は越前、一節を引く

「覚明仰せを承り、「箙の内よりも、小硯料紙とりいだし、墨すり筆を和しけるが、思ひ案ずるけしきもなく、古書を写すが如くにてやがて願書を書きをはる。

「何々、帰命頂礼八幡大菩薩は、日域朝廷の本主、累世明君の曩祖たり、宝祚を守らんが為め、蒼生を利せんが為めに、三身の金容を顕はして三所の権扉を押ひらき給へり、こゝに頻の年より以来、平相国と云ふ者あつて四海を掌にし、万民を悩乱せしむ、是れ仏法の仇、王法の敵なり、抑々曽祖父前の陸奥の守、身を宗廟の氏族に寄附す、義仲いやしくも其後胤として、この大功をおこす事、たとへば嬰児の蠡を以て巨海を測り蟷螂が斧を以て隆車に向ふ如くなり、しかれども君の為め国の為めに是をおこすのみなり、伏して願はくは神明納受垂れ給ひ、勝つ事を究めつゝ、仇を四方に退け給へ、寿永二年五月日と高らかに読み上げたり。

「木曽殿をはじめとして、其座にありし兵ども、真に文武の達者かなと、皆覚明をほめにけり、「義仲表指ぬきいだし、「是を願書に取り添へて内陣に納めよと、覚明にたまはれば覚明これを捧げ持ち、御前を立つてゆゝしくも八幡の宮に参りけり。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)