智者大師

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ちしゃだいし


画題

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解説

画題辞典

智者大師、諱は智覬凱、俗姓は陳氏、天台宗の開祖にして天台天師と称す、梁の大同四年、荊州華客縣に生る、年十八その父母を失ひ、湘州果願寺の法緒に就きて剃髪して十戒を受けて僧となり、後、彗曠律師慧思禅師に就き修學修道に力め、三十歳に及び、陳の光大元年を以て陳の都金陵に赴き、更に瓦官寺に留錫して法華玄義を講す、是時当時の宿徳高僧皆己●の講を棄てゝ瓦官寺に来り師席に列すという、之を以て天台宗開立の起原となす、大建七年三十八歳にして天台山に入り、山上に於て苦練すること九年の久しきに及ぶ、その間陳王の請によりて仁王経を講す、陳亡び隋の世に及び、煬帝の崇敬帰依を受く、有名なる国清寺は帝が師の為めに建てたる所なり、続いて晋王亦師を迎へて戒を受け、尊んで智者と呼ぶ、開皇二年荊州玉泉山に玉泉寺を開き、同十三年法華玄義を、同十四年摩訶止観を講述す、法華玄義は此後弟子によりて記録されたる法華文句、観音玄義と共に、天台宗の骨髄たる三大部の一なり、摩訶止観は一家修業の本拠なり、同十七年十一月二十四日天台山に寂す、壽六十、天台大師と称せらる、四教義、六妙門以下著作亦多し。

比叡山延暦寺所蔵画像二点(国宝)、近江園城寺所蔵が像二点(同)、近江西教寺所蔵画像一点(同)、近江胡宮神社所蔵後光厳院御賛画像一点、播磨一乗寺所蔵画像一点(国宝)

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

智者大師、諱は智顗、字は徳安、姓は陳氏、穎川の人、晋の世、都を遷すに及び、南に出でて荊州華容県に止まる、父起祖は梁孝元帝の時、益陽県開国侯たり、母は徐氏、温良恭倹で偏に斎戒を勤めた、ある日五彩の香煙霧の如くなつて懐に入ると夢見て大師を娠み、夜神光煥然たる奇瑞あり大師を産む、七歳の時喜んで寺院に往き諸僧について口づから普門品を授かる、十五歳にして僧たらんことを誓ひ、十八歳の時、遂に湘州果願寺の沙門法緒に随つて出家し、十戒を受け、深く律義に通じ、更に慧曠律師に詣でて方等教を兼修し、のち大賢山に詣で、『法華経』『無量義経』『観音賢経』を誦す、二十二年(陳文帝天嘉元年)にして慧思禅師に謁した時に惟ヘらく、昔霊鷲山に同じく『法華』を聴く宿縁の追ふ所今復来つたと、乃ち普賢道場を示し、ために四安楽行を説いた、二七日を経て『法華経』薬王品の『諸仏同讃、是真精進、是名真法供養』といふ所を誦すに当り、身心豁然として大悟し爾来『法華』の妙法に通暁し四方に法を弘む、陳大建七年秋九月、始めて天台に入つた、其後陳文皇帝の皇太子、陳少主等法を大師に聴き仏門に参じ、隋煬皇帝開皇十一年帝躬ら請うて菩薩戒を受けた時に大師曰く、大王紆て聖禁に遵ふ、名づけて総持といはんと、帝曰く大師仏法灯を伝ふ、称して智者としやうと、智者大師の尊称ここに姶まつた、かつて天台山にあつて台宗の蘊義を宣揚するに努めたが開皇十七年十一月、遂に入滅す寿六十、天台大師と称せらる。著作多く寺院を建立すること三十六、僧を度すること一万四千人に及んだと。  (仏教辞林)

智者大師画像三点(国宝)  比叡山延暦寺蔵

同     一点 (同)  近江園城寺蔵

同     一点 (同)  近江西教寺蔵

同     一点 (同)  播磨一乗寺蔵

後光厳院御賛画像一点    近江胡宮神社蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)