志道軒

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しどうけん


画題

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解説

東洋画題綜覧

徳川時代の奇人、姓は深井、京都東梅津の農、太作の子、初は政七といふ、幼時から豪爽不羈、農を好まず、十二の時、栂尾の高山寺に入つて剃髪し名を義定と改め、学業を励み一山に名を馳せたが、ある時壬生狂言を演じて讒せられ寺を追はる、これより諸国を歴遊して江戸に入り護持院に入て知事となつたが、後、僧を厭ひ、院を退き、酒色を友とし、初め本所石原に住み、次で浅草馬道の大長屋に移り、糊口に窮し、太平記読に倣つて志道軒と号し、浅草観音堂脇、三社権現前等に高牀を設け、其上に坐し軍談をなし、木製の陽物を手にして節を撃ち、諧謔警句百出、これを聴くもの毎日黒山を築いたといふ、明和三年三月七日歿す、年八十三。

浮世絵にその姿を画くものよく行はれた。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)