南山律師

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なんざんりっし


画題

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解説

画題辞典

南山律師、名は道宣、姓は錢氏、南山律宗の開祖なり、支那丹徒の人、唐代に出づ、十六歳にして仏道に入り、初め智首律師に就きて律を修め、後山に入り樹下石上に坐して定慧を行し、跡を終南山の谷に晦ます、故に南山律師といふなり、貞観十九年、玄奘法師が西域大旅行より経蔵を齎らして帰来するや、道宣進んでその勘文家となり、数百巻の律部伝記を訳出す、特に四分の律宗を大成して南山律宗の一派を興す、乾封二年七十二歳を以て寂す、著書、行事鈔、戒疏業疏の五大部を始め、続高僧伝以下頗る多し、

京都廣隆寺に元画の画像あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

南山律師、名は道宣、姓は銭氏、南山律宗の祖、長安の人で、隋の開皇十六年四月八日に生れた、九歳の頃から諸経を誦習し、十六歳智首に依つて得度し、大業年中具足戒を受く、唐の武徳年中律師を智首に習ひ、修禅を議して其叱を受け、遂に終南山に隠れて大に律の根抵を究めた、故に南山律師といふ、西明寺の成るに及び其の上座となり貞観十九年玄弉の印度から帰り、訳経に従事するや、自ら進んで其勘文書記となり、敷百巻の律、伝記其他の書を著はし、殊に四分律宗を大成して化制の二教実法、仮名、円教の三宗性空、相空、唯識の三観等の教判を立て、従来唯小乗の如くであつた戒律を円頓一乗であると論断した、所謂南山律宗是である、乾封二年十月三日入寂、年七十三、臘五十二、高宗哀悼し、天下の寺に勅して図塑を祀らしめ、懿宗の咸通十年十月諡して証照律師といふ。

京都太秦広隆寺に元画の像がある。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)