佐藤継信

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さとう つぐのぶ


画題

画像(Open)


解説

前賢故実

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(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

義経四天王の一人、三郎と称した、陸奥の人父を元治と呼び信夫の荘司で湯荘司とも呼ぶ母に藤原清衡の季子亘理十郎清綱の女、継信は弟忠信、鎌田盛政、鎌田光政と倶に義経に事へて四天王といふ、義経の奏請で兵衛尉となつた、屋島の役に平教経勁弓矢を以て頻に義経を狙ふ、義経麾下の勇士交々義経の馬前に立塞つたが遂に十騎ばかり仆る、継信も光政もその矢面に立つた一人であつた、教経の僮菊王進んで継信の首を討たうとするを忠信之を射て殪し継信を扶けて陣営に入る、義経継信の首を膝にのせて懇に言葉をかけると継信は平家の全滅を見ずして死すを憾むと言訖て冥目した時に年二十八、義経、光政の骸と共に牟礼の林中に葬り愛馬を飾つて賻とした。  (大日本史)

その継信の壮烈な最期を『源平盛表記』はかく伝へてゐる。

判官の乳母子奥州の佐藤三郎兵衛継信は黒革威鎧を著たりけるが、首の骨を被射貫真逆さまに落たりけるを、能登守童に菊王丸と云者あり、本は通盛の下人成けるが越前三位討れて後、其弟なればとて此人に附たりけるが萌黄糸威腹巻に左右射鞲さして三枚甲居頸に著なし、太刀を抜て飛で懸り継信が首を取んとする、四郎兵衛忠信立留り引固て放矢に菊王丸が腹巻の引合つと被射貫て一足もひかずな覆倒る、忠信が郎党に八郎為定、小長刀を以て開て童が首を取んと懸る、能登守童が頸取られじと太刀を打振りつとより童が手を取引立曳声を出して船に抛入る、暫しは生ベくや有けんに余り強被投て、後言もせず死にけり、忠信は此間に兄の継信を肩に引懸、泣々陣の中へ負て入たり、判官近く居寄給、いかに継信よ/\義経爰に有り、一所にてとこそ契しに先立る事の悲しさよ、如何にも後生をば可弔、冥途の旅心安思ふベし、さても何事をか思ふ、云置かしと宣へ共、只涙を流す計にて是非の返事はなし、判官重て、汝心があればこそ涙をば流すらめ猛兵の矢一に中て生ながら不言事やはある、左程の後れたる者とは不存者を、今一度最後の言聞せよと宣へば、継信息吹出し、よに苦しげにて息の下に、弓矢取る身の習也、敵の失に中て主君の命に替は兼て存ずる処なれば更に恨に非ず、只思事とては老たる母をも捨置、親き者共にも別れて遥に奥州より附奉し志は平家を討亡して日本国を奉行し給はんを見奉らんとこそ存しに、先立奉計こそ心に懸侍りし、老母が歎も労しと申ければ、さしも猛武士なれ共、判官涙をはら/\とぞ流し給ひける、実に思ふも理也、敵を亡さん事は不可経年月義経世にあらば汝兄弟をこそ左右に立てんと思ひつるにとて、手に手を取合て泣給へば、継信穴嬉しと其を最後の詞にて息絶けるこそ無慙なれ。(下略)

継信を画いた作に左記のものがある。

下村観山筆  『継信最期』  日本絵画協会出品

松岡映丘筆  『矢面』    第一回国画院出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)