上杉謙信

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うえすぎけんしん


画題

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解説

(分類:武者)

東洋画題綜覧

戦国時代の名将、本名輝虎、前名景虎、幼名虎千代といふ、十一歳の時出家し宗心房と改めたが天文十二年八月元服して景虎と改む、二十一年薙髪して不識庵謙信と号した、長尾為景の第三子で後上杉氏を冒す、十一歳にして四方に巡歴し叡山に於て宇佐美定行に逢ひ兵法を学び、定行を軍師とし兵一千人を募つて帰国し姉夫政景を破り兵力日に盛に、遂に越後を従へ加賀能登越中佐渡に兵を出す、当時甲斐に武田信玄あり威勢盛に、村上義清之と戦ひ敗れて謙信に援を請ふ、謙信の侠気之を容れ十六年三条根小屋を抜き守を置き精兵八千を率ひて信濃に入り信玄と戦ふ、十八年四月又海野平に戦ひ二十年八月上杉憲政、北条氏康に逐はれて越後に来り管領職と族称錦幢系図を謙信に譲つて復讐を托す、謙信之を許し上杉氏を冒し越後守と称す、二十二年正月将軍足利義輝使を遣はし東国を領せしめた、これに依つて初めて北条氏と兵を構へた、永禄四年には謙信関白藤原前久父子を守護して上洛するや将軍義輝に謁し義輝の一字を授けられて輝虎と名乗る、同時に関東管領に補し錦直垂、朱麾文書を賜ひ従四位下弾正大弼に任ぜられ、尋で参内し天盃御剣を賜はる、帰国の後、武田信玄と戦ふこと二度、其間北条氏康と和を講じ其子を嗣子とし景虎と名づけた、天正五年信玄死するや、織田信長と隙を生じこれと一大合戦を試みんとし、書を信長に送つて決戦の意を示し六年三月北陸の精鋭を集めて将に発せんとする二日前俄に病の為めに死す、年四十九、その陣中諸将を会して夜宴を張るの時、天高く雁声を聞いて、

霜満軍営秋気清、数行過雁月三更、

越山併得能州景、莫遮家郷憶遠征。

の一詩を賦した風流は古来好画題として屡々画かるゝ処である。

謙信を画く近作二三ある。

川辺御楯筆  宮田氏旧蔵

磯田長秋筆  第十四回帝展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)