都名所今昔展 電子展示

祇園祭と八坂

 
 

 祇園祭は貞観11年(869)に、牛頭天王の怨霊を鎮めるために始まったと伝えられる祇園社(八坂神社)の祭事で、現在では7月1日からの一ヶ月をかけてとり行われる。もともとは祇園御霊会や祇園会と呼ばれ、旧暦5月1日から6月17日までの行事であった。5月晦日には鴨川の水で八坂神社の神輿を洗い清める神輿洗の神事があり、その際には祇園の芸妓がさまざまな仮装をして練り歩く、練物行列が行われていた。芸妓たちの扮装は、その時々の時事的話題を盛り込むなど工夫が凝らされたもので、祭りの見どころのひとつとして浮世絵にも描かれる。「祇園会山鉾之図 鶏鉾」や「祇園御霊会行列図」にみられるように、山鉾の巡行は、6月7日の先の祭りと、14日の後の祭りの二日に分けて行われていた。現在の祇園祭と、江戸時代のそれとは形態が異なっていることになる。

 祇園祭で中心となる八坂神社の歴史は、社伝によれば平安建都の約150年前、斉明天皇2年(656)に始まるといわれる。現在では四条通に面した西楼門が表口のようにも思われるが、浮世絵にみえる神社南側の鳥居が表参道にあたる。境内舞殿の東には、『平家物語』巻六にも逸話の残る「忠盛灯籠」がある。

 

天下がよく治まっていたために、訴訟用の太鼓(諫鼓)も使われることがなく、太鼓には苔が生え、鶏が巣を作ったという中国の故事に由来した鉾。本図では確認できないが、鉾頭の三角枠の中心には円板があり、諫鼓の中に鶏卵があることを表しているという。また鉾頭の下の人形は、住吉明神を祀ったもの。同様の人形に加え、船形の飾りを付している鶏鉾の絵もある。

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本図に描かれる鉾は、毎年巡行の先頭をいく長刀鉾。鉾の名は、真木の鉾頭に疫病邪悪をはらう長刀が掲げられていることから名付けられた。祇園祭は、怨霊や疫神の邪気を払い無病息災を祈る「御霊会」に起源があると言われている。長刀鉾はその起源を体現し、現代に伝えてくれる鉾といえよう。鉾頭の長刀は平安時代の高名な刀工・三条小鍛治宗近作と伝えられるが、現在は宝物として保存され、竹に銀箔をはったものが代用されている。

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祇園会の祭礼行列を描いたもの。本図はその画風や、宝暦七年(1757)頃から巡行に不参加であったと推定されている「布袋山」が描かれていない点などから、およそ宝暦年間頃(1751〜1764)に刊行されたものと思われる。当時の他の書籍資料にくらべて山鉾の描写が簡潔な点は否めないが、それらと同様に山鉾町名を記したり、故事の解説を行うなど、「祇園会ガイド」としての役割を担ったものと思われる。 

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練物<ねりもの>で芸妓が扮する扮装には、主に「市井風俗をうつしたもの」「物語や芝居などの登場人物」「舞台上の歌舞伎役者を模したもの」などがある。宇治屋の芸者小糸が扮するのは「市井風俗をうつしたもの」のひとつ、餅つきをする女性で、手に持つのは餅を柳の枝につけた餅花<もちばな>である。祇園会の出し物として、祝儀性に富んだ日常のひとこまが選ばれたものであろう。

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市井風俗をうつした扮装。「吾妻」は東国のことで、京都からみた場合、粗野で洗練されていない田舎人をいう。本図でも男性の腕をひねることで、その吾妻女中の性質を示している。実際の練物の道中でも、このような演技をしてみせて、観衆の笑いを誘ったものであろう。井筒屋小梅は、文化10年(1813)の練物行列にも別の扮装で参加している。

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魚屋姿の歌吉と、飯炊女に扮した歌松を描いたもの。物売りに扮するものは多く、「酒売り」「花売り」「金魚売り」などの例もある。井上屋歌吉と歌松は、文化10年(1813)の練物行列にも、本図と同様にコンビを組んで参加している。この時は、歌松が舞妓役、歌吉がその母親役での参加であった。

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当時の歌舞伎で盛んに上演された「曽我物語」の世界の一コマをとりあげたもの。本図に描かれた扮装は、曽我兄弟の弟五郎が、父の敵工藤祐経<くどうすけつね>と初めて出会い、後日の敵討を誓う対面の場のものである。なお、五郎の兄曽我十郎は、大磯の遊女虎と恋仲である。同名の芸妓とらが五郎役に扮しているところも面白い。

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 宮木阿曽次郎<みやぎあそじろう>は、当時の落語、小説、芝居にもなった「朝顔日記」の登場人物。「朝顔日記」は、阿曽次郎と深雪<みゆき>の波瀾万丈の恋物語である。宇治川辺の蛍狩りで阿曽次郎は深雪とめぐり逢い、恋に落ちる。阿曽次郎が持つ蛍駕籠には、二人の出会いのきっかけとなる短冊もみえる。この物語は、文化11年正月大坂角の芝居「けいせい筑紫☆(琴+夫)<つくしのつまごと>」で歌舞伎化されており、当時話題性のある素材であったといえよう。この年の練物では、同じ芝居に登場するお蘭役に扮した芸妓もいる。

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「郭巨<かっきょ>」は中国後漢時代の人で、二十四孝の一人。家が貧しく母や子を養いかねていたが、母に十分な食事を供するためにわが子を埋めようとする。鍬で地面を掘ったところ、黄金一釜が出てくる。それは、郭巨の孝心に感じ入って、天から与えられたものであった。本来郭巨は男性であるが、ここでは芸妓が扮しやすいよう、女性に変えている。

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歌舞伎役者に似せた練物。本図の練物は、当時の女形のトップスターのひとり、初代中村大吉の舞台姿をとりあげたもの。大吉が三島おせん役を演じ、本図はそれを模した扮装であったと思われるが、現在のところ大吉がおせん役を演じた記録がみえない。井筒屋ふさ尾は文化11年(1814)の練物行列にも参加している。本図は「しづは」がふさ尾に改名した時点の図であるから、文化11年以前のものであろう。

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曲亭馬琴の小説『椿説弓張月<ちんせつゆみはりづき>』に登場する源為朝の妻、白縫姫<しらぬいひめ>に扮したもの。白縫姫は為朝を助けて戦う勇女で、本図でも龕灯<がんどう>と長刀を持った勇ましい姿で描かれる。奈良屋鶴松の白縫姫は、長谷川豊国の描いた別の作例もある。それには「叶a子役 白ぬい姫」とあり、歌舞伎役者叶a子<かのうみんし>の舞台姿をうつしたものであったようである。『弓張月』は文化4年(1807)刊行開始、すぐに歌舞伎に取り入れられ、翌文化5年11月大坂中の芝居で、叶a子が白縫姫役を演じている。

UP0708 合羽摺とは

「京都名所」全十枚シリーズの内の一枚。雪がしんしんと降る八坂神社の表参道を描く。雪の中、神社を訪れた美人たちの、足もとを気にする様子がうかがえる。中央の大鳥居とそこから伸びる石造りの垣により画面構成に見事な調和を与えつつ、それらを斜めから描くことで画面全体に十分な奥行を持たせた作品である。なお本図は佐藤木版画工房の協力を得て、当センターで摺りの実演を行った際の一枚。いわば「ARC摺」の復刻版である。

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京都の名所を描いた揃物「都名所」の一枚で、桜が咲きそろう八坂神社の表参道、石の大鳥居を描いたもの。本図の右奥に描かれている朱色の建物は南楼門である。現在の石の鳥居は正保五年に建立されたもので、寛文二年の大地震によって一度は倒壊したが、同六年に再建された。現存する石の鳥居の中では最大規模といわれている。なお貞信の風景画については、初代広重の影響がしばしば指摘されているが、本図も初代広重画「京都名所 祇園社雪中」との間に構図の類似が認められる。 

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 東山の象徴「八坂の塔」を有するのが、八坂法観寺である。塔の創建は古く、寺伝では如意輪観音の啓示を受けて聖徳太子が建立したとする。なお、現在見られる塔は、永享
12年(1440)に足利義教が再建したもの。
 安永
9年(1780)刊の『都名所図会』には、寛保・延享(17411748)頃に、近隣の遊女が八坂の塔の前で踊り、多くの見物人がおしかけたという逸話が記されている。
 

   

京都の寺院の中でも最古級の部類に入る八坂法観寺は、創建以来、炎上と再建を繰り返していく。足利義政の命で永享12年(1440)に再建された後、応仁の乱によって五重塔(八坂の塔)を除く主要な建造物がすべて灰燼に帰し、江戸時代に入ってから太子堂と薬師堂のみが寄進によって再建された。唯一古態をとどめることとなった五重塔であるが、中でもその礎石は、白鳳時代に創建された当初の姿を残すといわれており、今日でも参観が可能になっている。

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八坂境内舞殿の東には、『平家物語』巻六にも逸話の残る「忠盛灯籠」がある。祇園に怪しい風体のものが現れるという噂が立ち、平忠盛が退治を命じられる。忠盛が生け捕ってみると、雨よけのために藁束をかぶり、灯籠に油を差しに来た老法師であったという。「忠盛勇祇園ニ怪僧を捕フ」はその様子を描いたものである。

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