Meiji : Reformed Theaters in Kyoto

"Ebisudani-za Gekijyo Gaikan"
O-ban, Stone block print
Published: April, 1895(Meiji 28)
Publisher in Kyoto
Ritsumeikan Art Research Center(arcUP5025)

The theater Ebisudani-za Gekijyo Gaikan opened in March, 1876. According to Saikyo newspaper, on July 19th in 1883, a part of the theater turned into a fire and 500 guests rushed to the entrance, and this shows the capacity of the theater.
When the theater opened, they mainly played Miburi kyougen and Miyako odori, and this gained popularity. Although Onna Kabuki was prohibited for once, from 1872, because the regulation against Kabuki and theater was eased, woman came to stand on the stage again at Ebisudani-za. There are talking about actress, and Ebisudani-za was relatively progressive theater at then.

 夷谷座は明治28年に西洋の劇場を模した3階建の劇場に改築した。明治11年に開場した新富座以来、日本の劇場にも、運動場(現在の劇場内ロビー)が作られるようになった。この刷物から夷谷座も28年の改築時に運動場が備え付けられたことがわかる。また、劇場は長時間大勢の人間が密集して過ごすため不衛生な場所であったことから、頻繁にコレラなどの感染症が発生し、その都度興行差し止めになる劇場が数多く存在した。特に劇場の便所は不衛生になりがちであったが、夷谷座に関しては座主の杉本五兵衛が衛生面に気を遣う人物であったため明治19年の段階で、「府下の各劇場及寄席等の便所の不潔なることは何れも同様にして、悪嗅堪へ難き処なるが、独り新京極夷谷座のみは座主杉本五兵衛の注意行届きて便所の構造を巧にし、尚演技中は掃除人をして、之を清めしむるを以て一曇も厭ふ可き嗅気なく、看客に取りては実に幸なることなるが・・・(略)・・・」(中外電報、明治19年4月30日)と報じられている。このような記事からも夷谷座は劇場環境を整えることでも民衆の支持を集めていた。また、28年の改築でも積極的に衛生面の向上に取り組んでいることがわかる。
 明治33年には松竹合名社が仕打となり益々劇場としての輝きを増した。明治35年2月27日に京都演劇改良会協議が開かれ、座主の杉本や夷谷座の仕打の白井(松竹合名社の中心人物のひとり)も名を連ねた。その後も定期的に開催される演劇改良関連の協議に夷谷座も参加していることから演劇改良にも力を入れた劇場であったと考えられる。

[Glossary]
 身振り狂言、京都演劇改良会