顔真卿

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がんしんけい


画題

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解説

画題辞典

顔真卿は唐の忠臣なり、字は清臣、顔師古五世の従孫とす。学博く辞章巧に、書に於て入神の技あり。開元中進士に挙げられ、累進して殿中侍御史となる。後宰相に忌まれ、平原太守に貶せらる。天宝十四年、安祿山の反するや、勤王の大義を唱い、奮戦賊を破る。玄宗皇帝、初め河北悉く賊に従うと聞き、二十四郡一人の義士なきやと歎ぜしが、真卿が奏至るに及び、大に喜ぶという。乱平ぎて魯郡公に封ぜらる。徳宗皇帝の時、李希烈反す、相廬杞、真卿と善からず、希烈を慰諭せしむる目的を以て、真卿をして賊に使せしむ、賊之を留むる二歳、真卿節を持して屈せず、遂に縊らる、年七十六、後、文忠と謚らる。真卿朝に立つ時、其色剛、而も礼正しく、天下その名を呼ばずして魯公と称せりという。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

支那唐代の忠臣にして、また書道の聖、その著に『顔魯公集』がある、『列仙全伝』に曰く

顔真卿、字清臣、師古五世孫、博学工詞章、開元間、挙進士擢制拝、遷監察御史、徳業詳載唐書、建中四年徳宗命真卿問罪李希烈。内外知公不還、親族餞于長楽坡、公酔跳躑前楹曰、吾早遇道士、云、陶八八、授以刀圭碧霞丹、至今不衰老、又云七十有厄、吉他日待我于羅浮山、得非今日之厄乎、公至大梁、希烈縊殺之葬于城南、希烈敗、家人啓枢見状、貌如生、偏身金色爪甲穿出手背、鬚髪長数尺、帰葬偃師北山、後有商人至羅浮山見二道士奕棋樹下、一道士曰、何人至此、答曰小客洛陽人、道士顧笑曰、願寄一家書、商還至北山顔家子孫得書驚曰先太師筆也、発塚開棺無一物、径往羅浮求之、竟無蹤跡、後白玉蟾云、顔真卿今為北極駆邪院左判官。

と、『列仙伝』は仙人にしてゐるが、顔真卿は玄宗皇帝の命を奉じ、反将李希烈の罪を問はんが為め、衆の留むるをも聞かず、単身李希烈の許に赴き、幽閉さるゝこと二年、李希烈屡々之を脅かすと雖も敢然として動かず、遂に希烈の為め害せらる、時に年七十六、諡して文忠公といふ。真卿、人となり剛毅にして礼節あり、その朝に立つや、色を正して毫も私心がない、依つて時人、魯公と尊称した。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)