蒙古襲来

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もうこしゅうらい


画題

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解説

画題辞典

豪古襲来は即ち弘安の役にして、蒙古の主忽必烈が文永五年以来前後数回使を我に送り、悖慢の書を致せしも答へず、朝貢責徴を逼り至るに及び、一たびその使を逐ひ再びその使を斬りしを以て、弘安四年五月、元兵十万(此時蒙古国を建て元といふ)高麗兵一万、軍艦四千を以て来りて西海の海邊を侵すに至る、是より先き我邦に於ては、上下一致之れが難に備へしが、是に於て鎮西中国四国の兵筑後海濱に羅布して之を禦ぎ、奮戦六十餘日に及ぶ、同七月一日颶風大に起り、賊艦悉く壊れ、泥溺算なし、少貳島津の兵掩撃之を殲す、元兵生きて還るもの僅かに三人といふ、實に我邦開闢以来の大難にして、又未曾有の大捷なり、是れ朝廷の精誠幕府の勇断相須つ所なりと雖も、亦天祐にして神風の至るもの實に伊勢神宮の霊異の致す所となす、御物に蒙古襲来の絵詞あり、一に竹時二郎絵詞ともいふ、越前守長隆及長章の画く所なり、近くは菊地容齋筆に元艦覆滅図あり、第四回内国博覧會に松本楓湖筆の蒙古襲来の屏風出品あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

蒙古襲来は弘安の役である、宋の末年蒙古北方に倔起し勢ひ破竹の如く、亀山天皇文応元年四月忽必烈世を継ぎ中統と改元し四方を併呑せんとし文永三年黒的殷弘を国信使として我国に遣し、同五年正月高麗王禎蒙古に迫られて其臣起居舎人潘阜を遣し太宰府に到り国書方物並に蒙古の書を上る、執権北条時宗之を聞き朝廷公卿を召して評定し反牒をせぬ事に決し幕府西海沿岸の警備を厳にした、使者は防備の厳なのを見て去つたが、国難将に至るとなし藤原通雅を伊勢神宮に遣はし宸筆宣命を奉り、更に使を諸陵諸神社に遣して蒙古の難を奉告し祈祷せしめた、六年の春、蒙古使者黒的殷弘等対馬に来つて報書を求む、島司が之を拒絶したので島民を擒として蒙古王に献じた、斯くの如く屡々使者を送り来つたが、いつも之を退けたので、文永十一年十月、元は高麗の兵を加へて約四万我が国に来り攻め対馬壱岐を掠め対馬の守護代宗助国 壱岐の守護代平隆景よく防ぎ戦つたが遂に戦死した、元軍之に勢づき更に筑前に迫つたので、大友少弐菊池の諸将防ぎ戦つたが元軍は砲を以て攻むるので苦戦一方ならず、偶々大風吹き荒れて敵船沈没破壊するもの二百余艘、兵の死するもの一万三千人に及びその遁るゝものを捕へて之を水城に斬る、これを文永の役と云ふ。其後元は二度に亘つて朝貢を促がし来つたが、時宗断乎として之を退け、建治元年四月にはその使杜世忠、何文著、其他が来たので、時宗その無礼を怒り、之を竜口に斬つた、茲に於て元首忽必烈は大に怒り范文虎を将として兵十万余、船腹数千艘を以て弘安四年五月再び来寇し、二軍に分ち一軍は高麗の兵を加へ五万、朝鮮を発して対馬を襲ひ筑前長門に押寄せた、河野通有、竹崎季長草野七郎等の勇士防戦これ努めたが、敵の大艦に対し我は脆弱なる小舟なので苦戦名状すべからず、時に草野七郎は夜敵般に奇襲して之を焼き兵二十余を仆し、河野通有は小舟を以て敵に近づきその檣を倒して敵船に跳入り一将を擒にし数十人を斬り其他の諸将皆勇戦奮闘一歩も敵軍をして上陸せしめなかつた、その中に第二軍として兵十万、戦艦数千百を以て来襲した処七月一日俄かに一大颶風が襲来して敵艦四千悉く覆没し、軍兵また海の藻屑と消え生きて還るもの僅かに三人といふ、此の大難に際し亀山上皇が身を以て国難に代らうと祈られたことゝ北条時宗の勇猛果断は、よく此の大国難を防ぎ得たのである。

蒙古襲来は我が歴史の上での大事件なので歴史画として画かるもの多く、殊に帝室御物『蒙古襲来絵詞』は越前守長隆及長章の描く処で誠に稀世の至宝である、

此の外元寇の役を画いた作に左の如きものがある。

菊池容斎筆  『元艦覆滅図』    園田寛氏蔵

松本楓湖筆  『蒙古襲来絵屏風』  第四回内国博覧会出品

磯田長秋筆  『神風』       日本画会出品

権藤種男筆  『同』        養正館壁画

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)