聖一国師

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しょういちこくし


画題

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解説

画題辞典

聖一国師は臨済宗東福寺の開祖にして、名は辨円、字は円爾、駿河の人なり。五歳久能山の堯辨法師に侍して台教を學び、更に去りて園城寺に剃髪し東大寺に受戎す、次いで京都に於て孔老の教を學ぶ、後関東の長樂寺に榮朝あり道誉高かりしかば、之に従ひて禅戒及密灌を受け、又鎌倉に遊ぶ。一日三井寺の頼憲僧正と鶴岡の八講会に論議し、之を説破してその名を著はす、嘉禛元年末に入り径山の無準禅師に参じ、其法を嗣ぐ。在宋六年帰朝して藤原道家に迎へられ、東福寺及普門寺を建つ、是に於て聖一和尚と崇めらる。建長六年北条時頼に聘せられて鎌倉に赴き、翌年後嵯峨天皇に亀山離宮に召されて大戒を授く、爾来鎌倉壽福寺、京都建仁寺に歴任し、尊勝、天王、法成の三寺及東大寺の幹事となり、盛に教禅を并唱す、京畿の禅是より起る。弘安三年十月十七日寂す、年七十九、花園天皇国師号を賜ふ、

東福寺に兆殿司筆の画像あり、国宝なり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

聖一国師、名は弁円、字は円爾、臨済宗東福寺派の祖で駿河国稿科の人、幼時久能山の尭弁法師に侍して台教を学び、去つて近江の園城寺で剃髪し東大寺戒壇に受戒、次で外学を京都に学び又園城寺に還り教乗を修めた、時に栄朝、栄西の法を嗣ぎ関東の長楽寺に住し道声甚だ高い、弁円これに従ひ禅戒並に密灌を受け、更に寿福寺に至つて行勇に謁し大蔵を読む、一日三井寺の頼憲僧正と鶴岡の八講会で論を闘はし遂に之を説破したので名声関東に轟く、嘉禎元年宋に入り、初め景福院月宗に見えて律部を聴き、天竺寺柏庭に依て台宗相承の図を受け、後、痴絶、笑翁石田等の諸禅師に謁し径山に至り無準禅師に参し、遂に其法を嗣ぐ、禅師付するに宗派図並に密庵禅師の法衣等を以てした、在宋六年、辞して博多に帰り崇福承天の二刹を開創し始めて無準の道を唱へた、藤原道家其の名声を聞き請じて禅戒密灌を受け、また奏して僧正並に日本国総講師に補したが辞して受けず、重ねて聖一和尚の四字を以てした、尋で道家更に東福普門の二大寺を立て弁円を以て開山とした、寛元三年宮中に入り宗鏡録を進講す、碩学来り聴くもの多し、又延暦寺の座主慈源、戒壇院の円照、木幡の同心等皆就いて所疑を問ふ、建長六年北条時頼の請により鎌倉に赴き翌年東福寺に帰り慶す、後嵯峨天皇亀山の離宮に召して大戒等を受け給ふ、爾来鎌倉寿福寺、京都建仁寺等に歴住して尊勝天王法成の三寺及び東大寺の幹事となり盛に教禅を双ベ唱へた、京畿の禅宗これより大に起つた、弘安三年秋、常楽庵に寂す、年七十九、花園天皇勅して国師号を賜ふ、国師号は即ちここに始まる。  (日本仏教史綱)

東福寺に兆殿司画く所の画像があり国宝に指定されてゐる。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)