羅生門

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らじやうもん


画題

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解説

画題辞典

羅生門、俗に羅城門ともいふ、平安城の正門にして朱雀大路の中心に當り、朱雀門と遙に相望み、洛中洛外の境界をなす、門の台.廣さ南北二丈六尺、東西十丈六尺、二重閣瓦葺にして丹艧紛壁、平安京第一の大門なり,弘仁七年八月、大風の為めに倒れ、後再建されしが、西の京の衰頽すると共に大に荒廃し、平安朝末期には盗賊の住家と化したり、或時源頼光四天王の一人にして驍勇第一の聞えありし渡邊綱が、此門に鬼の住みけるを聞きて。之を退治せんと春雨の音も静けき夜の更くるを待ち、退治のしるしの禁札携へ.之を門に立てゝ帰らんとする時、楼上より鬼の降リ来りて綱が錣をつかみしを、太刀抜くより早くその手を斬りて落せしかば、鬼に火焔を吐き黒雲を呼び虚空に免れ去りたりとなり、この事古く童話ともなり又謡曲にも作られて廣く世に知らる、安芸厳島神社の本額に狩野松榮の作あり、

京都帝室博物館に筆者不明羅生門絵伝(二巻江戸時代)

あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

(一)羅城門とも書く、平城京平安京共に朱雀大路南方正面の大門で、京城の羅城即ち外郭の一部を開いた門の義、平安京の羅生門は今の東寺の西にあつた。『都名所図会』に曰く

羅城門の旧跡は朱雀通(今の千本通)四塚にあり、此門は桓武天皇平安城造営の時、初て建給ひけり、大内裏の南面にして外郭の総門なり、横上に毘沙門天を安置す、これ伝教大師の作なり。      

(二)謡曲の名、春雨のそぼ降宵、頼光渡辺綱其他四天王を集め酒宴の折柄、羅生門に鬼神がゐるといふことから争論が始まり綱は印の高札を持て羅生門に向ひ、鬼に出あひ、その腕を切つて武名を轟かすといふ筋で、シテが鬼神、綱がワキである。

「春雨の音も頻りに更くる夜の、鐘も聞こゆる暁に、東寺の前を打ち過ぎて、九条おもてに打つて出で、羅生門を見渡せば、物冷ましく雨落ちて俄に吹きくる風の音に、駒も進まず高いななきし、身ふるひしてこそ立つたりけれ、「其時馬を乗り放し羅生門の石壇にあがりしるしの札を取り出だし壇上に立ておき帰らんとするに、後より兜の錏をつかんで引き留めければ、すはや鬼神と太刀抜き持つて切らんとするに取たる兜の緒をひきちぎつて、おぼえず壇より飛びおりたり、かくて鬼神は怒りをなして、持ちたる兜をかつぱと投げ捨て其長衡門の軒にひとしく、両眼月日の如くにて綱をにらんで立つたりける。「綱はさわがず太刀さしかざし「綱はさわがず太刀さしかざし汝知らずや玉地を侵す其天罰はのがるまじとてかゝりければ、鉄杖を振り上げえいやと打つを、飛び違ひちやうと切る、切られて組みつくを、払ふ剣に腕打ち落され、ひるむと見えしがわきつぢにのぼり、虚空をさして上りけるを、慕ひゆけども黒雲おほひ時節を待ちて又取るべしと呼ばはる声もかすかに聞ゆる鬼神よりも恐ろしかりし、綱は名をこそ揚げにけれ。      

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)