織田右府

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おだうふ


画題

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解説

画題辞典

織田右府信長は、備後守信秀の三男なり、小字は吉法師、三郎と称す。少時豪縦無状にして、父の死後家を継ぎ清洲城の主となりしも.武事を弄して国務に尽くさず、その伝平手清秀切諫して自殺す、之より信長慨然としてその非を改め、天下一統の志を立つるに至る。永禄三年駿河の大将今川義元と戦ひ、寡兵を以て奇略を用い之を桶狭間に破リ一挙其威名を天下に振う。尋いで正親町天皇の勅を奉じ、足利義昭と結び、美濃の斎藤氏を滅ぼして直に京師に入る、是に於て従五位下弾正忠に叙せらる。元亀元年湊井長政朝倉義景の二雄の聯合軍と姉川に戦って之を破り、更に叡山の横暴を悪みて、之を討ちて僧兵を一掃す。天正四年大に安土に城き、岐阜城より移りく之に居る。同十年徳川家康と共に武田勝頼を討って之を亡ぼし、甲信を平げ、更に西中国に向い、既に天下の半を収めたり、此間最も朝廷の衰微を慨き、資を献じて皇居を造営し.供御の田を定め、旧典の廃れたるを復し、又伊勢両宮を修築するなど、思を皇朝の上に致すこと甚だ厚つし、官亦累りに進み、右大臣となり正二位に叙せらる。会々中国の軍事に携わりて京都に在り、洛中本能寺に館せし時、その臣明智光秀の怨を含めるあり、私に異図を蔵し、俄かに起ちて襲来せるに会い、血戦して遂に刺さる、年四十九、実に天正十年六月二日なり。信長資性活達、勇にして断あり、人を識りて善く之を器使す、然れどもその情一たび激する時は些の假借する所なし、是れ此禍を招くに至りし所以なるべきか。

その画像京都大雲院所蔵のもの最も真に近しという。大徳寺総見院亦之を蔵し、織田子爵家には狩野永徳画く所のものあり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

おだのぶなが「織田信長」のこと、その項(織田信長)を見よ。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)