清水寺

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きよみずでら


画題

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解説

画題辞典

清水寺は洛東音羽山にあり。本尊は十一面観世音にして西国三十三番の札所として有名なる霊場なり。草創は延暦二十四年、坂上田村麿が信心の為めに私寺を建て清水寺と名づけしに起因す。堀河天皇の時行幸参拝あり、源平戦後一時衰頽し、その後幾変遷を経て、豊臣秀吉之を再建し大に盛になり。江戸時代に及びて将軍家光大に堂宇建立の工を起す、今の堂塔是なり。本堂掛け出しの高閣は即ち懸崖に架して作りたるものにして、有名なる清水の舞台なり。眺望甚だよろしく、四時参拝遊覧の人絶えず、京都名勝の第一地に算へらる。

清水寺縁起三巻は土佐光信の筆にして東京帝室博物館にあり。堂塔境地の景を図せるものは古今亦甚だ多し。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

京都の名所、音羽山清水寺といふ。法相宗で、東山清水坂の東端に位し西国巡礼第十六番の札所、桜の名所でもあり、断崖に張り出した有名な舞台からは京都市の西南が一眸に収められ、奥の院の南には音羽の滝がある。

音羽山清水寺の本尊十一面千手千眼観世音菩薩、脇士は毘沙門天、地蔵菩薩なり、抑も当時の来由を尋ぬるに大和国小島寺の沙門延鎮、宝亀九年の夏、霊夢を感ずる事ありて木津川の辺りに行て見れば、一つの流れに金色の光あり、源を尋て直ちに登るに一流の滝なり、傍をみれば、茅ふきたる庵に白衣を着せる老翁あり、延鎮此庵に入て、御身はいかなる人ぞ、翁の曰、我名は行叡、此地に住事は既に二百歳に及べり、常に千手真言を誦ふ、我貴僧を待こと久し、東に行んとおもふ志あれば、御身しばらくこゝに住給へ我此霊木を以て大悲の像を作り、精舎を建ん願あり、若遅くかへりなば御身我にかはりて此願を成就し給へといへり、延鎮もとより夢の告あれば辞する事なく翁の心にまかせける、大に悦びて翁は東に向ふて庵を出たり、夫より延鎮此所に住めり、或時山科の東の嶺にてかの翁の履を拾へり、延鎮おもへらく、さてはかの翁は大悲の応現まし/\けるよと、有難く愈々大悲の尊像を安置せんと、ねがひ有ながら力足らずして年月を送りしに、延暦十七年に将軍坂上田村丸産婦のために鹿を猟して音羽山にわけ入りかの草庵に至れり、延鎮田村丸に逢て翁の示せし事を告る、田村丸渇仰の思ひをなし、屡延鎮の相好を見るに、神仙の如し、是即大士の化現ならんと信心いやまし、家に帰りて妻女に語れり、妻の曰、わが病を治せんとて多くの殺生をなす、此罪いたつて深かるべし、其教にまかせて大悲の尊像を安置し奉らばいかばかりの利益なるべしと、夫婦心をあはせ観音寺を建て延鎮に寄附せん事を約す、又行叡より授りし霊木を以て観音の像を作らん事を願ふ、延鎮其夜夢中に、十一人の僧来て大悲の像を作る、長八尺十一面四十臂の千手観音なり、造り終つて十一人の工僧行方を知らず、夢覚て見るに赫奕たる尊容現じ給ひて目前にあり、当寺本尊是なり、夫より仏殿を建んと思ふに、此地嶮岨にして尺地もなかりければ、いかゞと心憂かりしに其夜多くの鹿来りてやすらかに平地になせしかば仏殿を造りて大悲の像を安置し奉れり。  (都名所図会)

清水寺を画いた作少くない、多く花見時を画き或は高尾などと、双幅とする。

応挙呉春双筆  『京名所絵巻』     紀州家旧蔵

一鳳筆     『清水寺の桜』     田村家旧蔵

無款      『清水寺男女遊楽図』  三浦直介氏蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)