法住寺合戦

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ほうじゅうじかっせん


画題

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解説

東洋画題綜覧

木曽義仲平家を討つて上洛するや、その武士都に於て狼藉限無し、後白河法皇歎かせ給ひ壱岐判官知康を召し義仲追討を命じ、一方天台座主明雲僧正、寺の長吏八条宮を法佳寺の御所に招き請じ在し、延暦園城の悪僧等を召さるべき旨仰あり、こゝに於て知康之が将となり軍勢を狩集めて義仲追討を図る、義仲大に怒り、今井兼平樋口兼光の諌言をも聞かず法住寺を焼討し知康を逐ひ、天台座主明雲大僧正、寺の長吏八条宮皆義仲の兵に討たれ御室、(仁和寺の宮守覚法親王)も既に危い処を今井四郎兼光に依り事なきを得給ひ、法皇は豊後少将宗良唯一人守護し参らせ五条内裏へ入らせ給うた、『源平盛衰記』に曰く

天台座主明雲大僧正は、馬にめさんとし給ひけるを、楯六郎親忠、能引て放矢に、御腰の骨を射させて真逆に落給ひ、立もあがり給はざりけるを、親忠が郎等落重なつて御頸をとる、寺の長吏八条宮も根井小弥大が放失に左の御耳の根を、横首等に射させて倒給ふ、是をも落重なりて御首を取る、哀と云ふも疎なり、御室も此有様を御覧じて如何すべきを仰有けるに、只御出候へと勧申ければ御車に召て出させ給ふ、木曽是を見て能引堅めて既に射奉らんとしけるを今井四郎兼平、何とて知進〈しりまゐらせ〉たりけるやらん、あれは御室の召されたる御車也、悞〈あやまち〉し給ふなといへば、木曽弓を緩めて、御室とは如何なる人ぞと問ふ、兼平、僧の中の王にて貴き人にてわたらせ給ふと答ふ、木曽さては仏や、仏は何の料に軍の城には籠給ひけるぞとは云ながら、穴賢々々と申て楯六郎を附て戦場を送出し奉る、あぶなかりける御事也、法皇は御所に火懸りければ御輿に召て南面の門より御出有り、武士責懸て御輿に矢を進せければ御力者共は流石命の惜ければ這々逃失せぬ、公卿殿上人も被立阻て散々に成けるを、此彼にて打伏られて赤裸に剥取られ、御伴に可参様もなし豊後少将宗長といふ人、木蘭地の直垂小袴にくゝりあげて只一人御伴に候けり、少し強力の人にて御輿に離進せず、武士なほ弓を引矢を放ければ、宗長高声に、是は法皇の御渡なり、誤仕なと訇〈のゝしり〉ければ楯六郎親忠が弟に、八島四郎行綱と云ふ者、馬より飛下て御車に移載進らせて、五条内裏へ渡し入進らせけり。  (盛衰記第三十四)

斯の法住寺合戦を画いた作左の通り

小堀鞆音筆  『今井兼平救御室宮図』  日本美術協会出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)