橘諸兄

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たちばなの もろえ


画題

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解説

前賢故実

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左大臣正一位。敏達天皇の六世孫。初めは葛城王と呼ばれていた。忠実で私欲がなく、皇族の模範、徳望の高い老臣として尊敬されていた。聖武天皇天平八年、諸兄は「和銅元年十一月二十一日に大嘗祭が行われ、二十五日に御宴が開かれた。そのとき、帝は杯に浮かぶ橘を母に賜り、「橘は果物の長だ。その葉は霜や雪を凌いで生い茂り、寒さにも暑さにも耐えて萎れない。橘を汝の姓にするのにふさわしい。」と仰った。しかし、わたくしは未だに旧称を使っているので、恐れの多いことだ。橘の姓を改めてわたくしに賜るようお願い申しあげます。橘の姓を限り無く代々相伝させていく。」と上表した。すると、聖武天皇は諸兄に橘宿祢という姓を下賜し、諸兄へ贈る祝いの歌をも作った。孝謙天皇勝宝二年に朝臣姓を賜り、八年に人に讒言されて官職を辞した。帝が讒言を信じていなかったが、諸兄は督責されていると感じ、骸骨を乞いたいと言い、引退の表を上奏した。世俗では諸兄は井手大臣と呼ばれていた。

葛城王に橘の姓を賜る時の御製歌、あるいは太上天皇御製歌

橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝に霜降れど いや常葉の樹

(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

奈良朝末期の名家、難波皇子の曽孫で治部卿美努王の子、初め葛城王と呼んだ、和銅年中従五位下に叙し馬寮監に補せられ、天平の初正四位下左大弁に進み、三年参議に擢んでられた、天平八年弟佐為王と上奏し臣籍に下り、其母県犬養橘三千代の例に倣ひ、橘宿祢の姓を賜はらんことを請ひ、即ち詔を以て姓橘宿裲を賜つた、乃で諸兄と改めた、太上天皇、適々皇后の宮に宴し和歌及酒を賜ふ、九年大納言となり、十年正三位に叙せられ右大臣を拝し従二位に進み、その相楽の別業に行幸を拝するや、其子奈良麿また位を賜はる、勝宝の初正一位に進み改めて姓朝臣を賜ふ、宝字元年薨ず、年七十四、その山城井手の里の別業には山吹を多く栽ゑ、これを楽しんだので時人井手の左大臣と呼んだ。或る時奥州に使した、国司極めて緩怠なので諸兄喜ばず、すると采女あり左手に觴を捧げ右手に水を持ち、諸兄の膝に拊し歌を詠じて曰く

浅香山かげさへ見ゆる山の井の浅き心をあれ思はなくに

と諸兄、漸く意が解けたといふ、このこと万葉集十六巻に載せてある。

井手別業の諸兄卿、此の浅香山の歌、共に好個の画題である。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)