栄西禅師

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えいさいぜんじ


画題

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解説

東洋画題綜覧

鎌倉時代の高僧、明庵と号す、備中国吉備津宮の人、姓は賀陽氏、薩摩守真致の曽孫で、八歳の時既に倶舎婆裟ニ論を読んだといふ、聡敏群児を凌ぎ、十一歳の時、郡の安養寺に投じ、十四歳落髪し、叡山の戎壇に登り、顕密二宗を学んで蘊奥を極む、仁安三年四月宋国明州に入る、年廿八、当時二百余年来絶えてゐた航海求道を敢へてしたのである、栄西は更に印度に赴かんとしたが果さず、在宋半年にして帰り、文治三年また入宋し天台山万年寺虚庵に師事して衣法を嗣ぎ留ること数年、後鳥羽天皇の建久二年帰朝し肥前平戸に禅刹を創建し禅規を行ひ、次で京師に入り盛に仏心宗を唱へたが容れられず屡逐はれんとした、禅師屈せず興禅護国論を著す論者悉く風靡し、名声高まる、建久三年筑前香椎神宮の側に報恩寺を建て、六年博多に聖福寺を建立す、此春天台山の菩提樹を東大寺に栽ゑ、建仁二年将軍源頼家、地を京師に賜ふて建仁寺を建てた、三年尚書省台密禅三宗を置く、元久三年官寺を上す、是より先、天皇勅して紫衣を賜ふ、建永元年東大寺の幹事となり、建保元年僧正となる、二年相模に移り寿福寺を創建し、三年病の為め七月五日寿福寺に寂す。年七十五。嗣法長楽寺栄朝を首として十人ある。  (国史大辞典)

建保三年鎌倉に至り実朝に謁す、時に病あり、栄西宿醒にして病でないのを知り、清茶一服を進め為めに『喫茶養生記』を献じた。  (大日本人名辞書)

本邦茶を喫すること、これより漸く盛になつた。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)