文覚

提供: ArtWiki
2021年12月7日 (火) 18:47時点におけるWikiSysop (トーク | 投稿記録)による版
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
ナビゲーションに移動 検索に移動

もんがく


画題

画像(Open)


解説

(分類:武者)

画題辞典

文覺、初の名に遠藤武者盛遠と稱し、上西門院の北面となり又院の武者所となる、軀幹壮大、驕保にして武芸に通ず年十八、同族渡邊渡の妻袈裟に懸想し、渡を殺さんとして誤つて袈裟を殺し、痛根の餘懺悔して髪を削り僧となりて名を文覺と改む、勧修勇猛、盛暑隆寒共に修行を怠らず、山林に露臥し飛泉に凝立す、名山大川古祠浄刹至らざるなし、就中那智瀑下の荒行世に伝へて知らる、高雄神護寺の傍に庵を結び、梵宇の頽廃再興を立願し、謂ゆる勧進帳を作り、普く浄財喜捨を求む、一日後白河法皇の法性寺殿に強請し、縦まに殿庭に侵入して疏を讀み上げ、検非違使等の之を支へんとせるを怒り、摶て之を殺す、之を以て縛されて獄に下り、又伊豆に流さる。時に會々源頼朝亦流されて伊豆に在り、文覺頼朝を見、共将帥の器を稱し厥起を促し、自ら京に赴き院宣を得て頼朝に附す、頼朝志を成すに及び威権あり、厚過を受く、東寺及神護寺を修す、已にして平家亡滅の後亦大に平家に同情し、請うて維盛の子六代を助け、又不軌を図り、佐渡に流されて同地に死す、實に傲狼不覊の一猛僧といふべし、袈裟殺害より那智の荒行、法性寺殿勧進帳、頼朝會談、皆共に歴史書の好画題目として画かる、藤原隆信筆の画像に神護寺にありて国宝たり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

文覚、元の名は遠藤盛遠、父を左近衛将監茂遠と云ひ、幼にして親を喪ふ、長じて上西門院の北面となり又院の武者所となる、年十八、誤て源渡の妻袈裟を殺し、痛恨の余髪を削り僧となる、勤修勇猛、山林に露臥し飛泉に凝立し、名山大川古祠浄刹至らざるなく、高雄神護寺の傍に梵字の頽毀を嘆いて営繕し、父母の冥福を祈らんとし、遂に化疏を作つて普く浄捨を求め、また一日後白河法皇の御所法住寺殿に至つて奏請したが、法皇は群臣と宴を開かれてゐたので意せず文覚即ち高声に疏を読み検非違使を殺し、法皇を慢罵したので捕へられ廷尉の獄に繋がれ赦にあつて出獄したが意気更に撓まず憚る処なりし、終に伊豆に流さる、即ち奈古屋寺に居し自ら善相人と称した、遠近帰嚮するもの多きを加ふ、偶々源頼朝亦謫されて伊豆にあり、一日文覚を訪ふ、文覚見て謂て曰く、吾曽て四方に遊び源氏諸族を見るも皆大事を成すに足らず、今公を見るに心操平穏将帥の器あり、公誠に事を興さば尽す処が有らうと、乃ち急に福原に赴き後白河法皇の院宣を得て還る、予め頼朝期するに事もし成らば丹波播磨土佐豊饒の地十三ケ所を神護寺の寺田とすることを以てした、既にして頼朝大将軍となるに至り終に神護寺及び東寺を修す、平氏滅びた後北条時政京師にあつて平氏の子孫を捕ふ、平維盛の子六代また擒へられて将に斬られんとした、文覚頼朝に請うて之を助く、性傲狼老いて止まず、頼朝の死後、不軌を図つて露はれ佐渡に流されたが踊躍罵詈、絶食して死す、年八十。  (国史大辞典)

その袈裟との情話、頼朝との会見、那智の荒行等歴史画の題目としてよく描かれ、神護寺には藤原隆信の筆なる画像があり国宝に指定さる、

近代にては左の作あり。

福田恵一筆  『文覚』    第九回帝展出品

塚原霊山筆  『文覚勧進』  第八回文展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)