文天祥

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ぶんてんしょう


画題

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解説

画題辞典

文天詳は宋末の忠臣なり、字は宋瑞、吉州の人、寶祐四年試に應じ禮郎進士たり、徳祐の初、元兵頻りに逼り已に江を渡る、而も宋の重臣宿将畏縮して起たず、天祥獨り奮然厥起し孤兵を提げて元軍に抗し、屢々元軍を苦しめしが、後降を強ひられ、其宋に仕ふる心を以て之に仕ふるに於ては宰相たるべしと説かれしも應ぜず、首都に送られて士窟に投ぜられ、元人の為めに殺さる、妻其死體を收むるに面色生くるが如く、衣帯の内に「孔子仁を成せといひ孟子義を取れといふ、今日死して愧づる所なし」と記したるを得たりといふ、有名なる正氣の歌は土窟幽囚中の作なり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

文天祥は支那宋末の忠臣、字は履善又は宋瑞、吉州廬陵の人、宝祐四年試に応じて礼郎進士となる、開慶の初、元の兵宋に迫るや、宦臣董宋臣遷都の説を奏す、人敢へてその非を議するものなし、天祥時に寧海軍節度判官であつたが、大に乏を非とし上書して宋臣を斬らんことを請ふたが容れられず、即日免れて帰り遷つて刑部郎官となり、更に瑞州の守となる、尋いで江西提刑に改められ尚書左司郎官となる、徳祐の初、韶に応じて天下勤王の兵を募り以て元軍と戦ひ屡々之を破る、然も時利あらず、妻子皆捕はれ、天祥亦南嶺で元将張弘範のために捕へられ脳子を飲んだが死なず、従容として敵に客礼をとらしめ『所過零丁洋詩』を書して送る、その末節に曰く『人生自古誰無死留取丹心照汗青』と、敵も皆これを畏敬し降を勧めたが聞かず、遂に京に送らる、途中食を絶つこと八日に及んだが死なず、かくて燕京にあること三年、至元十九年変を起すものあり、こと文天祥に関するものがあつたので自ら進んで死を請うた、その妻、屍を収めた処面色将に生くるが如くであつたと、時に年四十七、衣帯の中に賛があり、曰く、『孔曰成仁、孟日取義、惟其義尽、所以仁至、読聖賢書、所学何事、而今而後、庶幾無媿』と、有名なる『正気歌』はその幽囚中に作る処である。

     正気歌

天地有正気、雑然賦流形、下則為河嶽、上則為日星、於人曰浩然、沛乎塞蒼溟、皇路当清夷、合和吐明庭、時窮節乃見、一々垂丹青、在斉太史簡、在晋董狐筆、在秦張良椎、在漢蘇武節、為厳将軍頭、為嵆侍中血、為張雎陽歯、為顔常山舌、或為遼東帽、清操属氷雪、或為出師表、鬼神泣壮烈、或為渡江揖、慷慨呑胡羯、或為撃賊笏、逆豎頭破裂、是気所磅礴、凜冽万古存、当其貫日月、生死安足論、地維頼以立、天柱頼以尊、三綱実繋命、道義為之根、嗟予遘陽九、隷也実不力、楚因纓其冠、伝草送窮北、鼎鑊甘如飴、求之不可得、陰房閴鬼火、春院閟天黒、牛驥同一阜、鶏棲鳳凰食、一朝蒙霧露、分作溝中瘠、如此再寒暑、百沴自辟易、哀哉沮洳場、為我安楽国、豈有他繆巧、陰陽不能賊、顧此耿々在、仰観浮雲白、悠々我心憂、蒼天曷有極、哲人日已遠、典刑在夙昔、風檐展書読、古道照顔色。

『芥子園画伝』人物篇に画像を載する外、人物画として描かるゝもの多い。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)