房玄齢

提供: ArtWiki
2021年12月7日 (火) 19:44時点におけるWikiSysop (トーク | 投稿記録)による版
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
ナビゲーションに移動 検索に移動

ぼうげんれい


画題

画像(Open)


解説

画題辞典

房玄齢に支那唐初の良臣にして、古来杜如晦と相並んで賢相の範と挙げられし所なり、字は喬松、太宗皇帝を佐けて天下を定め、賢才を挙げ文学を興し、後世貞観の治を称せしめ、相位に在ること三十二年、而も賢に譲り功を言はず善に悉く人主に帰る。宗臣といふべきなり、梁王に封ぜられ、貞観二十二年卒す。年七十一、文明公と諡す。大事を議するに当り玄齢能く謀り杜如晦克く断ず。相侯つて事を為せり。曾つて太宗侍臣に向つて創業と守成と何れが難きと問ふ、立齢曰く、草昧の初、群雄並び起る。力を角して後之を臣とす創業難し。魏徴曰く、古より帝王之を娘難に得ざるなし、安逸に失はざるはなし。守成難し。帝日く、玄齢吾と共に天下を取り、百死を出で一生を得。故に創業の難を知る。徴ほ吾と共に天下を安んず。常に驕奢ほ富貴に生じ禍乱は忽にする所に生ずるを知る。故に守成の難を知る。創業の難已に往く。守成の難は諸公と共に慎まんと。有名なる逸話となす。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

支那唐初の名臣、字は喬、斎州臨淄の人、幼にして敏、文を善くし草隷に巧みであつた、十八歳で進士に挙げられ、羽騎尉となり秘書省の校讐となる、中原方に乱るゝに及び、慨然として起ち先づ唐太宗に謁して渭北道行軍記室参軍となり秦王府記室に進み、臨淄侯に封ぜらる、そして太宗の軍を起すや之に従はざることなく、清廉よく身を処した、府に居ること十年、機密に与り参劃すること甚だ多い、太子、秦王と隙を生ずるや玄齢は杜如晦と謀つて秦王を輔け、秦王の位に即くに及び玄齢は中書令となり。如晦、長孫無忌、尉遅敬徳、侯君集と功第一となり、爵を邦国公に進められた、帝嘗て創業と守文といづれが難きかを問ふ、玄齢曰く、時草昧に方り群雄競ひ逐ふ、攻め破つて乃ち降し戦勝して乃ち剋つ、創業は則ち難しと、魏徴曰く、王者の興るや必ずや衰乱に乗じて昏暴を覆へす、殆んど天授人与するもの、既に天下を得れば則ち驕逸に安じ其国を毒し人民を窮せしむ、守文は則ち難しと、帝曰く玄齢は我に従つて天下を定め百死を冒て一生に遇ひ創業の難きを見る、徴は我と天下を安じ富貴なれば則ち驕り驕れば則ち怠り、怠れば則ち亡ぶるを畏れ守文の易からぬを見る、然れど創業の易からぬは既に往き、守文の難きは方に公等と之を慎むべしと、玄齢宰相たること十五年、女は王妃となり、男は公主となる、高麗の役起るに及び玄齢病を犯し上疏して極諌したが久しからずして薨ず、年七十一。

道釈人物画として画かる。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)