大石良雄

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おおいしよしたか


画題

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解説

画題辞典

大石良雄は赤穂義士の棟梁なり、通称内蔵之介、播州赤穂の城主浅野氏の家老にして、領一千五百石を食む。元禄十四年、主浅野内匠頭長矩が、殿中刃傷の廉を以て死を賜わり国除かるゝや、良雄同志四十七人と相提盟し、自ら京都山科の里に隠れ、屡々祗園の妓楼に遊びて陽に酒色に沈湎し、窃に時機を窺い、十五年十二月十二日夜を以て、同志と共に、本所松坂町吉良上野介義央が邸に乱入し、之を斬って亡君の仇を報ず、その忠誠悲壮の事実は、人口に膾炙し、武士の典型と尊ばる。明年二月四日死を賜わり、細川家の邸に自刃す、年四十五。歴史画とし、教育画とし、図せらる所多し、其の廓通の図は古画多く、

又九代目団十郎が画く所あり、酒楼に鞱晦せる良雄は現代に下村観山写す所あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

赤穂四十七士の領袖、浅野氏の国老で千五百石を食む、元禄十四年二月浅野長矩不敬の罪により死を賜ひ国除せらるゝや、群臣城中に会し後事を議す、衆議決せず、良雄遂に同志の士四十七人を得、自ら京都山科の里に隠遁し名を池田久右衛門と改め時機を窺ふ、十五年十二月十四日夜同志と共に吉良義央を本所松坂町の邸に襲ひ讐を報じた、幕命によつて細川綱利の邸に幽せられ、翌年二月四日死を賜ふ、年四十五、高輪泉岳寺旧主の墓側に葬る、法名を忠誠院刃空浄剣居士といふ、良雄性寛仁大度沈毅にして事に齷齪せず、人皆痴と称した、伊藤仁斎につき経史を学び、山鹿素行に兵法を習ふ、又画を好む、雪舟の画風で気韻がある。  (国史大辞典)

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)