夕霧

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ゆうぎり


画題

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解説

画題辞典

一夕霧、源氏物語の一巻にあり、小野に御座します一條の落葉の宮を柏木果てゝ後、夕桐大持深く心にかけ忍ばるゝ、其比落葉の宮の母の御息所、物怪にわづらひ小野の山里に在りしを、夕桐馬にて見舞はる、是れも落葉を思召す心よりなり,或る折少将の女房など呼び、語らるる内に日暮になり、山里なればわけて霧深くたちこめしかば、山里の哀れをそふる夕霧に立いでんそらもなき心地してとあり、其夜は泊り玉ふ、翌暁京に歸り、文して小野を訪はるゝに、宮は物はづかしく返事もし玉はざれば、御息所苦しき心の下より返事せらる、やがて空しくなる、夕桐あとのことを取計らひ,四十九日も過ぎ、落葉の宮を京へよびとり、雲井の雁と二御所にして十五日づつ通はるゝとなり。源氏絵として画かる。ニタ霧ほ寛文年中に於ける大坂新町扇屋の遊妓にして藤屋伊左衛門との情事に於て知らる、歌俳茶花絲竹を善くす、伝へていふ、伊左術門夕霧に狎れ、父に追はれて漂流し、紙衣一枚となりて寒を防ぐ、一日廓中に夕霧の行くを見、情堪えず、往いて手を執る、夕霧流悌して慰む、伊左衛門の父翌日、夕霧が志の渝らざるを喜び、之を迎へんとす、夕霧、一たび妾が志を疑ふものは永く親しみ難しと往くを肯へんせずといふ、近松門左衛門之を吉田屋の遊妓として戯曲に作り、人に行はれ、随つてその事都鄙に喧伝せらる、浮世絵として画かる所なり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

(一)京都島原の遊女、本名は照、歌俳茶花糸竹をよくし寛文十二年扇屋四郎兵衛、大阪新町の廓へ移るの時全盛を極めた、嘗て引舟といふ妓を設け、客あれば先づこれを送りて客の接待をせしめ、自分はあとから訪れる法を案出した、延宝六年五月六日歿した年二十五、西寺町浄国寺に葬る、『花岳芳春信女』と、句あり。

児の親の手笠いとはぬ時雨かな。

全盛を極めた遊女であつたので、俳優坂田藤十郎は、伊左衛門と共にこれを舞台に上し、近松には『夕霧阿波鳴門』の作があり、俗曲として又劇として『廓文章』世に行はる。

むざんやな夕霧は、流れの昔なつかしき、夫の音〆身にこたへ飛立つ心奥の間の、首尾がくちせぬ縁と縁、胸と心の合の山、あひの襖の工合よくあけ暮恋しいつまの歌、見るに嬉しく走りより、抱きついたるきりぎりす、なくより外の事ぞなき  (富本節)

夕霧は劇画、浮世絵として画かれる。      

(二)『源氏物語』五十四帖の一、光源氏五十一歳の秋から師走までのことを記してゐる、柏木が世を去つてから、夕霧の大将は、小野に居る落葉の宮に心を通はす、その比落葉宮の母の御息所の物の怪にわづらひ小野の里にあるを、夕霧馬で見舞ふ、これも落葉を慕ふことから出てゐる、かうして御息所が煩つてゐるので、自然その方へ人が多く行き、落葉の方は寂しくなる。

しめやかにて思ふ事も打ち出てつべき折からと思ひ居給へるに、霧のたゞこの軒のもとまで立ち渡れば、まかんでん方も見えずなりゆくは、いかゞすべきとて

山里のあはれをそふる夕霧にたちいでん空もなき心地して

と一首の歌を贈る、巻の名はこれから出てゐる、夕霧はかくて御息所のなきあと、何くれとなく後を始末して、落葉の宮を京へ呼び迎へる。      

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)