北斎の浮絵

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総合

浮絵とは

西洋の遠近法を取り入れ描かれた、十八世紀後期から十九世紀初期に製作された浮世絵の一様式の名称である。技法としては、肉筆と版画とがあり、肉筆画は、横型を基本にして、軸装になったものが多く、「朝鮮通信使来朝図」、「室内遊楽図」、「新吉原大門口図」等かなり大幅のものも見受けられる。版画は、大大版、大版、中版、小版など各種があり、画面横の帯に「浮絵」「新板浮絵」と商品名のようにうたっている作例が多い。浮絵は江戸で流行した呼称だが、京都の不韻斎も「うきゑ」と画中に記している。

(「浮世絵大事典」国際浮世絵学会編 東京堂出版 2008.6

岸文和「江戸の遠近法―浮絵の視覚」四勁草書房 1994.11)


歴史

『続談海』という延宝八年(一六八〇)から天明二年(一七八二)にかけての「国家の諸事」を記した一種の通史があり、その元文四年(一七三九)の冊に、「元文太平記巻第四目録」という史料が収録されている。これには十九ばかりの出来事が起きた順に箇条書されていて、「浮絵出版行事」は七番目に書かれている。

「浮絵出版行事」は「異国船着船浦々(ヨリ)告(レ)急事」と「無人島帰国之者喰(ニ)於異島(ヲ一)物語之事」の間に挟まっている。

「異国船着船浦々(ヨリ)告(レ)急事」は、『徳川実紀』に「この五月下つかたより。陸奥。安房の洋中に蛮舶見ゆるよし聞ゆ」と記されている事件であり、「無人島帰国之者喰(ニ)於異島(ヲ一)物語之事」は同じく五月二十九日に、二十一年ぶりに無人島から帰国した船乗りたちが、「惣躰白風切羽黒く、左右之羽延候得ば、五六尺程も有(レ)之」という、これまで見たこともない大きな鳥を食料としていたことを代官所の役人に報告した事件である。

つまり、「浮絵出版行事」は元文四年の五月下旬の出来事である。

(岸文和「江戸の遠近法―浮絵の視覚」四勁草書房 1994.11)


第一期、第二期という分け方は、岸文和「江戸の遠近法―浮絵の視覚」から。

各項目の説明は以下の文献から、まとめたもの。

第一期、第二期

岸文和「江戸の遠近法―浮絵の視覚」

「浮世絵大事典」

大久保純一「広重と浮世絵風景画」東京大学出版会 2007.4


成熟期

岸文和「江戸の遠近法―浮絵の視覚」

「浮世絵大事典」

仲谷兼人「浮世絵版画の空間表現 ー浮絵と遠近法を中心としてー」『大阪樟蔭女子大学人間科学研究紀要』2006.1)

第一期

元文四年ころから宝歴年間 (1739~1764)

奥村政信、鳥居清忠、田中益信、西村重信、西村重長、古山師政など

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**芝居狂言舞台顔見世浮絵

初期の作例「芝居狂言舞台顔見世浮絵」(奥村政信)は、延享二年(1745)一一月の顔見世である。こうした背景のない一点消失の透視図法による室内画では作図上の破綻が少ないが、政信作品のうち、背景に風景を配 した作例は、伝統的な大和絵の俯瞰描法が併存しており、視点が統一されてない。

主に建物の内部空間や都市の大通りに画題を求め、透視図法ももっぱら柱や梁といった建築の構造部や通りに立ち並ぶ家々の軒の連なりなどに適用され、戸外の自然景に適用されることはなかった。理由として直線で構成される建築物は比例が割り出しやすかったのに対し、自然景にはそれが難しかったためという。



第二期

明和四年から寛政年間(1767~1801)

歌川豊春、歌川豊国、北尾重政、北尾政美など

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**歌川豊春「浮絵 歌舞伎芝居之図」ボストン美術館 **歌川豊春「江戸名所上野仁王門之図」国会図書館

歌川豊春の芝居小屋内の図は、奥村政信の図に比べて、視点統一と人物の漸減が合理的に進展を見せている。写実性が増した分だけ、役者は遠くに配置されることになり、芝居図の変種としてのこの画題に類型化をもたらしてもいる。

また、戸外の自然景に透視図法的空間をおこなったことも歌川豊春である。



衰退期(成熟期)

享和年間から文化年間(1801~1818)

葛飾北斎、歌川広重など

ただ浮絵であるというだけでは既に受け入れられるものではなくなり、画題のおもしろさ、表現の巧みさなどが眼の肥えた人々の関心事であった。

絵師は、錦遠近法を特別に意識することもなく風景空間の骨格として消化されるに至り、浮絵というジャンルは徐々に消滅した。藍や紅の拭きぼかしの導入による大気を感じさせる空間表現がされる。

葛飾北斎について

宝暦一〇年(一七六〇)〜嘉永二年(一八四九)。


江戸本所割下水(現在の墨田区亀沢)に生まれる。幼名を時太郎といい、のち鉄蔵と改名したという。生家は川村氏で、後年幕府御用眼鏡師で祖父にあたる中島勢の養子になったと伝えられる。十九歳頃まで版木の文字彫りを業としたといい、安永七年(一七七八)頃に勝川春章に入門して勝川春朗の名を与えられた。最も早い作品は、安永八年(一七七九)八月上演の芝居に取材した「岩井半四郎 かしく」(細判)ほかに三店の役者絵で、以降没年に至るまで、その作画期は約七〇年間に及ぶ。諸派を学んで様々な影響を受けつつ確率された画風は、後世に大きな影響を与えた。版画、錦絵、摺物、版本、肉筆画など作域は広く、生涯に手がけた作品数は膨大な量に上ると考えられている。画風や作画傾向の変遷、改名の時期などを総合して、その画業は六期に大別される。


春朗期

安永八年〜寛政六年(一七九四)頃。

勝川春朗の画号で、版画、黄表紙等の版本挿絵、絵暦などを制作した。版画では役者絵を中心に浮絵など多岐にわたる画材を描き、肉筆画にも、若干の作例がある。寛政六年頃に勝川派を離れたものとみられるが、天明五年(一七八五)とその翌年に「春朗改群馬亭画」、寛政五年(一七九三)に「叢春朗画」と署した作品がある。


宗理様式の時代

寛政七年(一七九五)頃〜文化初年(一八〇四、一八〇五)頃。

俵屋宗理を名乗った寛政七年から同一〇年(一七九八)までの期間と、同様の画風と作画傾向を示した享和年間(一八〇一〜〇四)まで。 繊細で情趣に富んだ画風で、当時盛んに行われた狂歌に関連する摺物や絵本の挿絵を描き、その分野の名手として世評を得た事が、「狂歌はいかゐ等の摺物画に名高く」と『浮世絵類考』に記されている。趣味人の需要に応じた、文芸と関連の深い作品や肉筆画を多く制作した事がこの時期の特色で、俵屋宗理のほか、百琳宗理(寛政七〜九年)、北斎宗理(寛政九〜一〇)、北斎辰政(寛政一一年〜文化七年)、可候(寛政一〇年〜文化八年)、画狂人(寛政十二年〜文化五年)などの号がある。特に画狂人を用いた年代には優れた肉筆画が多い。寛政一〇年八月の摺物に「宗理改北斎画」とあることなどから、同年中に宗理号を門入の琳斎宗二に譲ったものとみられている。この時期の作品には、狂歌絵本『柳の糸』(寛政九年)、『東都名所一覧』(同一二年)、『美やこ登里』(享和二年)、肉筆画「夜鷹図」などがある。また、『竈将軍勘略之巻』(自画作、寛政一二年)など、可候の名で黄表紙の作品を残している。


葛飾北斎期

文化二年(一八〇五)頃〜同八年(一八一一)頃。

和漢洋の技法を独自に消化した画風を示し、摺物や狂歌絵本のほか、錦絵、肉筆画など、幅広い分野に数多くの作品を残した。特に読本の挿絵に活躍し、『浮世絵類考』に「絵入読本此人より大に開けたり」との記述が見られる。画狂人北斎、葛飾北斎、九々蜃(文化二年)、戴斗(同七年〜文政三年)などの画号を用いた。この時期の主な作品には、洋風表現を試みた錦絵「くだんうしがふち」、狂歌絵本『絵本隅田川 両岸一覧』、読本『椿説弓張月』、肉筆画「二美人図」、「潮干狩図」などがある。


戴斗期

文化九年(一八一二)頃〜文政一二年(一八二九)頃。

絵手本・絵本の制作に勢力を傾け、文化一一年(一八一四)に初編が出版された『北斎漫画』をはじめ、『略画早指南』、『北斎写真画譜』など、多くの作例が知られている。絵手本類のほか、享和年間(一八〇一〜〇四)頃より用いた「亀手蛇足」印を門人に譲った事を記した肉筆画「鯉図」、鳥瞰図の錦絵「東海道名所一覧」等の作品がある。



画狂老人卍期

天保五年(一八三四)頃〜嘉永二年(一八四九)

画狂老人卍と号し、没年に至まで旺盛な学が活動を続けた。特に肉筆画の制作に力を入れ、動植物、和漢の故事古典など、時様風俗を離れた幅広い内容の作品を残している。 (「浮世絵大事典」)

富嶽三十六景

ここでは「葛飾北斎」の代表作となる「冨嶽三十六景」を中心に、どのように遠近法が取り入られているのかを考えてみようと思う。


「冨嶽三十六景」

富士を様々な視点でとらえた連作で、葛飾北斎の代表作かつ浮世絵版画の名作として世界に知られる。中でも「神奈川沖浪裏」、「凱風快晴」、「山下白雨」が三役とされ国内外での評価が高い。横大判錦絵四六枚揃。同シリーズの版元西村屋与八(栄寿堂)が天保二年(一八三一)に刊行した版元の奥村広告に本揃物の広告が記載されるため、この頃刊行されていたと考えられる。落款には「北斎改為一」、「前北斎為一」、「北斎為一」の三種が使用されている。なお、四六図中三六図の主板が藍摺、残りの一〇図の主板が墨で摺られる。後者の一〇図は好評を受けての追加出版とみなされ、現在「裏不二」と称されている。完結年は明らかでないものの北斎は天保五年(一八三四)に本揃物の結実ともいえる『富嶽百景』を刊行しているため、この頃には完成していたのではないかと推測される。本揃物の意図は文政十四年(実際には天保二年)刊記を持つ合巻『正本製』一二編奥村に掲載された広告分にあるように場所によって異なる富士の姿を描き尽くすというところにある。季節や気候、時間によって移り変わる富士、さまざまな土地や視点から見た富士を機知に富んだ構図で描き、狩野派、漢画、銅版画などあらゆる分野の絵画を貪欲に学んだ北斎ならではの作品となっている。また同じ広告文に「藍摺一枚」とあるように、ベロ藍が多用されているのが特徴。青葱堂冬圃による随筆『真左喜のかつら』は唐藍(ベロ藍)の浮世絵での使用に関して本揃物に触れており、当時の爆発的な人気ぶりをも伝えている。なお、ベロ藍を色版部分に用いる一方で、藍摺の主版は本藍を使用していることが実証されている。本揃いは富士講の流行をうけての出版および人気とも見られるが、なにより浮世絵界に風景画のジャンルを確立させた功績は大きい。また、富士山をさまざまな視点から描くという趣向を持つ本揃いが、歌川広重「不二三十六景」(中判錦絵揃物)、同「富士三十六景」(大判錦絵揃物)、歌川国芳「東都富士見三十六景」(大判錦絵揃物)といった後世の作品を生み出す礎となったといえるだろう。

(「浮世絵大事典」)


「富嶽三十六景」で見られる遠近法

「富嶽三十六景」は、主に前景と後景で構成されていると思われる。

手前に見える景色である前景には、建築物や船、浪などが描かれていて、画題となる富士山が描かれている後景だけでは生まれない奥行を補っている。


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**葛飾北斎「凱風快晴」ボストン美術館

赤富士と呼ばれる「凱風快晴」は、前景がなく、後景の富士山のみ描かれている。富士山の大きさは変わらないため、視点が置かれている場所から富士山までの距離が大体分かるのではあるが、絵の中に奥行はないため、平面的な図となっている。

そのため、平面的な後景の手前に前景を入れることで、距離感を出し奥行を表現している。

このような前景は三つの描き方により描かれていると思われる。


平行投影法(平行透視)

最初に平行投影法である。


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平行透視はすべての平行線をそのまま平行に表現する図法で、非科学的(非近代的)な方法である。初期の絵画に見られるときには、観念造形化の一要素と考えられる。これは中国絵画において、その高い視点とあいまて、伝統的な技法であった。

(「オックスフォード西洋美術事典」講談社 1989.6)


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**葛飾北斎「東都浅艸本願寺」ボストン美術館 **葛飾北斎「礫川雪ノ旦」ボストン美術館


平行投影法は浮絵が出版される前の絵でよく見られるが、この平行投影法という描き方だけでは、浮絵のような立体感を出すには無理がある。

しかし、上の図を見ると、平行投影法で大きく描かれた建築物とともに、視点から遠くのところに多くの建築物(屋根)を小さく描き足すことで奥行を表現している。

一点透視図法(一点消失遠近法、中央消失遠近法)

次に、一点透視図法と呼ばれる描き方である。


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一点透視図法とは、 科学的遠近法における最も単純な図法である。ルネサンス絵画によく見られるように、画面が対象の主な面に平行な場合に現れる。この場合、正面に向かっている面の平行線は一点に収束する事はないが、もし対象が家とか部屋のように直方体であるならば、奥行き方向の平行線は画面と直交することとなり、従って遠近法の画面ではただ一つの消失点に収束するのである。 (「オックスフォード西洋美術事典」)


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**葛飾北斎「深川万年橋下」ボストン美術館 **葛飾北斎「五百らかん寺さざゐどう」ボストン美術館

一点透視図法で描かれる浮絵の多くには、劇場や街並みが描かれている。そのため、大勢の人が描かれていて、奥に行く程人が小さく描かれている。しかし、北斎はそのような街並みを描いておらず、「人を同一線上に配置する」「多くの直線(放射線)を引かない」など、浮絵と意識させるような描き方はしていない。

零点透視図法

最後に零点透視図法という描き方である。

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**葛飾北斎「駿州江尻」ボストン美術館 **葛飾北斎「武陽佃嶌」ボストン美術館

消失点がない零点透視図法は、遠くのものほど小さく描くだけで遠近感を与えられる遠近法である。これの特徴は、一点透視図法のような奥行を表現する直線がないということである。上の図を見ると、手前の山が富士山よりも大きかったり、奥に行くほど人が小さく描かれたりしているが、直線はほぼ描かれていない。

また、「富嶽三十六景」の多くの絵はこの零点透視図法で描かれている。

北斎の浮絵

北斎は浮絵を描く時に、手前の方にある「近景」と遠くにある「遠景」を分けて図を構想したのではないだろうか。

また、「冨嶽三十六景」では、遠景に富士山を配置し、近景に「遠近法」を取り入れ奥行きのある空間を構成している。その「遠近法」には、従来の浮世絵でよく見られた「平行投影法」や西洋の遠近法の一つである「一点透視図法」、また消失点を持たない遠近法を「零点透視図法」の三種類が見られていて、これは和漢洋の技法を巧みに用いて絵を描いた北斎ならではの特徴と言えるのではないだろうか。

参考文献

「浮世絵大事典」国際浮世絵学会編 東京堂出版 2008.6

岸文和「江戸の遠近法―浮絵の視覚」四勁草書房 1994.11

大久保純一「広重と浮世絵風景画」東京大学出版会 2007.4

「オックスフォード西洋美術事典」講談社 1989.6

仲谷兼人「浮世絵版画の空間表現 ー浮絵と遠近法を中心としてー」『大阪樟蔭女子大学人間科学研究紀要』2006.1

「国史大事典」吉川弘文館