加藤清正

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かとうきよまさ


画題

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解説

(分類:武者)

画題辞典

加藤清正は有名なる武府なり、小字夜叉若.又虎之助と称す。幼にして父を失い、母と共に豊臣秀吉に頼る。十五歳より各所の戦に出て殊勲あり、天正十年賤ケ嶽の戦には特に武勇を顕わし、七本槍の第一に数えらる。十三年従五位主計頭となる、十五年秀吉西征の軍には宇佐城を守りて大功あり、肥後半国二十五万石を受け、熊本城の城主となる。文禄征明の役、清正第一先鋒となり、朝鮮に進み、咸鏡道より入り、遂に王子を虜にす、慶長二年、朝鮮再度の役、復攻城野戦到る所に武勇を輝かす、遂に蔚山城に入りし時糧食尽きて大いに苦しみたること亦有名の談柄なり、武名七道に轟き、最も鮮人の怖るゝ所となれり、已にして秀吉薨去に及び、軍を回す。関ヶ原の役には、石田三成と善からざりし為め、国に就いて徳川氏の為めに西海を撫す。十六年秀吉の遺孤秀頼を奉じて大阪より京都に上り、二条城に徳川家康と会見を遂げしめたるは、畢生の苦慮を致したる所にして、無事会見を終りし時、匕首を懐中より出し、太閤の洪恩今日報ずといいたりとなり、尋いで国に帰り熱病を以く卒す、歳五十、世又其の死を以て家康に毒さられしものとなし加藤の毒饅頭の逸話伝わる。

京都勧持院に、その画像あり。歴史画、教訓画として画かるゝ所少しとせず、田中訥言画く所(名古屋天野三郎氏所蔵)あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

加藤清正は清忠の子、母は豊臣秀吉の母と従父姉妹である、幼にして父を失ひ、母と共に秀吉に依る、十五歳にして元服し、幼名虎之助を清正と改む、天正九年因幡鳥取城、備中冠城、摂津の山崎、丹波の亀山等の軍に従ひ功あり、十年五月賎ケ嶽に武勇を顕はし、賎ケ嶽七本槍の随一として謳はる、十三年功を以て従五位下主計頭に任ぜられ、十五年征西の軍に従ひ宇佐城を守つて大功を樹て、経に肥後半国廿五万石を受け熊本城に主たり、十九年秀吉征明の決意を示すや、清正先鋒となつて軍に従ひ先づ朝鮮王を擒にし明に入て四百余州を屠らんと進言す、秀吉大に喜び文禄元年征明の師を起すや、清正を以て第一先鋒とした、清正咸鏡道より進んで善戦破竹の勢を以て敵を敗り遂に王子を虜とした、やがて和議調ひ一旦軍を還したが慶長二年和議再び破れ、清正は小西行長と共に兵を率ゐて朝鮮に赴き到る処勇名を馳せ、遂に蔚山城に入つて敵に囲まれ糧尽きて将に死に瀕したが善戦遂に敵を敗走せしめた、かくて征明の役に従ふこと実に七年、異域に武名を轟かせたが会々秀吉の薨去により諸将と合議して軍を還した、慶長五年石田三成兵を挙げ上杉景勝之に党し関東軍と戦つたが、清正三成と善からず、家康の為めに西海を鎮撫した、十年功を以て従五位上侍従兼肥後守となつた、十六年秀頼京都に赴く、蓋し家康の招く処である、清正幸長と共に之に陪し福島正則は一万の兵を以て大阪に留つた、清正僅かに手兵五百を以て秀頼に従ひ伏見京都の間を徘徊せしめて不慮に備へたが漸く無事船路邸に帰つた、船中懐中より秀吉伝来の匕首を出し、太閤殿下の洪恩今日漸く報ずるを得たと、やがて帰国し熱を病んで卒す、歳五十、遺命により甲冑帯剣のまゝ中尾山に葬つた。

清正平常論語を好んで読み、座臥之を離さず朱点を加ふ、又小猿を愛して座右に養ふ、或日清正圊へ立つた隙に小猿論語を披て縦横朱筆を以て狼藉した、清正曰く、「汝亦論語を解するか」と。  (大日本史其他)

加藤清正は戦国時代の名将で、殊に征明の軍に勇名を轟かしたので、歴史画の好画材とされ画かるゝ処少くない。

加藤清正像           京都勧持院蔵

田中訥言筆  同上       名古屋天野三郎氏蔵

小堀鞆音筆  『清正望嶽図』  松金由蔵氏蔵

福田恵一筆  『主計頭清正』  第十五回帝展出品

前田青邨筆  『加藤清正』   第八回七絃会出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)