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<p></p>
<p><b>新規ページ</b></p><div>=総合=<br />
[[画像:Z0688-1-008-1-.jpg|thumb]]<br />
<br />
==和漢百物語『不破伴作』==<br />
<br />
翻刻<br />
<br />
[[「不破伴作」]]<br />
<br />
茂林家三勇士の一個にして強気驍勇の壮者なり 名古屋高木の二勇と約してともに古寺に怪異を試し変化の主体をみとめしといふ<br />
<br />
<br />
絵師:芳年<br />
<br />
落款印章:一魁斎芳年<br />
<br />
改印:丑八年 慶応一年(1865年)八月<br />
<br />
版元:大黒屋金之助・金次郎<br />
<br />
<br />
----<br />
<br />
不破伴作は茂林家の三勇士の一人にして、気が強く勇ましい若者であった。[[名古屋]]と高木の二人を伴い、共に古寺に住む怪異の主体を見極めたという。<br />
<br />
<br />
'''[[<あらすじ>]]'''<br />
<br />
<br />
'''森家三勇士伝'''<br />
<br />
揚名舎桃李口演、今村次郎速記。成立年は明治29年(1896年)。上記の話は是に拠る。この浮世絵成立年より30年も下った話である。冒頭に鞘当のことに触れながら、「(不破名古屋の)その実をば尋ぬれば黒白ほどの相違もあれど、先んでて人を制すのは世の習ひ」と述べており「されば不破名古屋の実録は是なりといふも信ぜざる者もなきにあらねど」と、歌舞伎でもって世の中に定着してしまった不破名古屋の不仲を述べた上で、この本の中での三人の話は「花も実もある小説」と述べている。つまり、この本の中では不破名古は仲がよく、世の話と多少違うことを冒頭で述べている。しかしこの本中盤において、ささいな事から三人は対立することとになる。<br />
<br />
参考:近代デジタルライブラリー<br />
<br />
[http://kindai.ndl.go.jp/BIBibDetail.php?tpl_wid=WBPL110&tpl_wish_page_no=1&tpl_select_row_no=1&tpl_hit_num=1&tpl_bef_keyword=&tpl_action=&tpl_search_kind=1&tpl_keyword=&tpl_s_title=&tpl_s_title_mode=BI&tpl_s_title_oper=AND&tpl_s_author=&tpl_s_author_mode=BI&tpl_s_author_oper=AND&tpl_s_published_place=&tpl_s_published_place_mode=ZI&tpl_s_published_place_oper=AND&tpl_s_publisher=&tpl_s_publisher_mode=ZI&tpl_s_publisher_oper=AND&tpl_s_nengou=AD&tpl_s_published_year_from=&tpl_s_published_year_to=&tpl_s_ndc=&tpl_s_ndc_mode=ZI&tpl_s_heading=&tpl_s_heading_mode=ZI&tpl_s_heading_oper=AND&tpl_s_toc=&tpl_s_toc_oper=AND&tpl_item_oper=AND&tpl_sort_key=TITLE&tpl_sort_order=ASC&tpl_list_num=20&tpl_s_jp_num=41013084]<br />
<br />
'''俊傑森三勇士伝'''<br />
<br />
作者は尾関トヨ。成立年は、明治20年(1887年)。内容は、『森家三勇士伝』と同様、不破名古屋高木の三人の勇士伝であるが、こちらは小説というより絵が主で絵の空いたスペースに話が書かれている。三人が古寺にて妖怪退治をしている場面もあるが、名古屋と不破が桂木をとりあう場面や鞘当のような場面など、歌舞伎の演目も取り入れた絵も多くある。絵から想像するに、前記の『森家三勇士伝』と同じような話・場面が描かれている絵もある。<br />
<br />
参考:近代デジタルライブラリー<br />
<br />
[http://porta.ndl.go.jp/service/servlet/Result_Detail?meta_item_no=I000112060&meta_repository_no=R000000008]<br />
<br />
<br />
''和漢百物語の解説においては・・・''<br />
<br />
スティーヴン氏によれば、不破は「高下駄に立派な刀という、歌舞伎においては典型的な二枚目の姿をしている」と説明されているが、ほかの不破の役者絵を見ても、必ずしも高下駄を履いているわけではない。むしろ、高下駄を履いている不破の役者絵の方が圧倒的に少なく、この記述に関しては何の根拠もない。<br />
<br />
<br />
また、スティーブン氏曰く「この森家三勇士の話は有名な話であり、曲亭馬琴をはじめ多くの作家たちが本を書いており、不破のモデルとなったのは歌舞伎の不破伴左衛門である。この「三勇士古寺」の話において国芳は、ブッダのイメージを持ってして、さびれた寺をバックに不破が後ろから名古屋を驚かそうとしている場面を描いている」と述べている。<br />
<br />
<br />
残念ながら、曲亭馬琴が不破伴作について書いた話は見つけられなかった。しかし、前述の通り、歌舞伎の不破名古屋とは異なる、この古寺の話などは、講壇において語られ明治期に入り文字に起こされた。スティーブン氏は「有名な話で、多くの作家が本を書いた」と述べてはいるが、講壇については言及していない。おそらく、講壇については認識していなかったのではないか。また、「ブッダのイメージを持ってして」とあるが、これは何も根拠がない論述である。「不破が名古屋を驚かそうとしている場面」とあるが、この絵は人を驚かそうと身を潜めている様子もないし、後ろから前を伺っている様子でもない。不破の目線は傘の上にいる化け物を見据えている。この古寺の話のオチは不破が名古屋高木の両者の勇気を試した、ということであったが、おそらくスティーブン氏はその話を頭に入れた上で、「驚かそうとしている」という解説を加えたと思われる。<br />
<br />
<br />
'''<歌舞伎においての不破名古屋>'''<br />
<br />
「不破名古屋」は歌舞伎のテーマのひとつである。今日でも、吉原の桜の下で二人の刀の鞘があたり一触即発となる「鞘当」の場面は残っており、歌舞伎十八番にも選ばれている。<br />
<br />
'''あらすじ'''<br />
<br />
遊女の葛城をめぐり名古屋山左衛門の父を殺した不破伴左衛門は、山三と敵対関係にあった。吉原で桜の下ですれ違いざまに互いの刀が触れ合ったのを口実に二人は立て引きとなる。その後、寺西閑心と戒名した判左衛門は、暗闇で山三になりすまし葛城と同衾するが露見し、また不破と葛城が実の兄妹であることも発覚し、山三に討たれてしまう。(『浮世柄比翼稲妻』文政六年(1823年))<br />
<br />
名古屋山三を恨んで自決した不破判左衛門は、鍾馗(魔よけの神)となり、鎮護国家安穏を約束し悪霊退治をする。(『参会名護屋』(1697年))<br />
<br />
<br />
'''はじまり'''<br />
<br />
初演は土佐浄瑠璃『名古屋山三郎』でこの二人が描かれたのが最初となり、天和三年(1683年)ごろ、『遊女論』が井戸の市村座で上演された。配役は、不破を初代市川団十郎、山三郎を村山四郎次で上演され評判になり、不破名古屋の歌舞伎や浄瑠璃が流行した。元禄十年(1697年)、『参会名護屋』において、二人の鞘がぶつかり合う「鞘当」の趣向が確立、以後不破名古屋のテーマで上演されてきた。不破訳は[[初代市川団十郎]]以来、市川家代々に受け継がれている。[[画像:2CNQB.jpg|thumb|俊傑森三勇士伝より古寺三勇士の場面]]<br />
<br />
<br />
'''いでたち'''<br />
<br />
「鞘当」においての不破の出で立ちは、深編笠、大小、雲に稲妻の模様が入った衣装である。これは初代団十郎がデザインを考案し、その後、不破の衣装に踏襲されるようになったとされる。ちなみになぜこのデザインになったかというと、荷翠の「稲妻のはじまり見たり不破の関」という俳句に着想を得たからとされる。[[画像:100-9740.jpg|thumb|国周画 喜九字当機成台]]<br />
<br />
一方山三の出で立ちは深編笠、大小、雨に濡れ燕の模様の羽織衣装である。こちらは文化三年(1806年)の読本『昔話稲妻表紙』に、其角の「傘にねぐらかさふよ濡燕」という俳句からきていると説明されている。春雨に燕の飛び交う様を小袖に描かれ定着した。<br />
<br />
<br />
<br />
'''[[不破名古屋についての上演記録]]'''<br />
<br />
<br />
'''<歌舞伎以外の浮世絵>'''<br />
<br />
朝顔 見しおりの つゆわすれられね あさかほの 花のさかりや すきやしぬらん<br />
<br />
水野忠邦による天保の改革によっ江戸の諸風俗は大きく制限を受けた。出版界や歌舞伎も贅沢品として制限を受ける。役者絵をありありと描くことで制裁を被ることを恐れた出版業界は、カムフラージュした作品を描くようになる。役者そのままではなく、古典などにそって役者を描くのだ。この『源氏雲浮世画合』もそのひとつである。<br />
<br />
<br />
小倉百人一首96 入道前太政大臣 「花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり」<br />
<br />
「名古屋の浪宅不破程に月もさし」とハ 盥を釣て雨をしのぐ 軒場の破を見附た狂句 彼ハ稲妻を模様につけて 丑の姦邪をあらハし 是ハ三傘を紋所にして 旦の艶麗なるを知ず 雲の雷電 廓中燕 何遊里の縁語なるべし 柳下亭種員筆記」<br />
<br />
小倉百人一首7 阿倍仲麿 「あまの原 ふりさけみれば かすがなる みかさの山に 出し月かも」<br />
<br />
「江州高嶋佐々木の家臣父山左エ門を 同藩不破伴左エ門に討れ 浮浪の後 患苦いふばかりなく 都嶋原上林の葛城太夫が貞節によりて 朱雀野の堤にて 敵を討しとなん 柳下亭種員筆記」 <br />
<br />
参考:[http://homepage2.nifty.com/ukiyo-e/100/100-thumb10.htm]<br />
<br />
小倉擬百人一首では、不破名古屋の二人が画かれている。<br />
<br />
[[画像:005-0826-2-.jpg|thumb|源氏浮雲世画合]]<br />
[[画像:012-0567-1-.jpg|thumb|小倉擬百人一首]]<br />
[[画像:Z0677-007.jpg|thumb|小倉擬百人一首]]<br />
<br />
<br />
'''<まとめ>'''<br />
<br />
不破伴作、不破左衛門ともに浮世絵を調べても、どれも歌舞伎の一場面を描いた絵しか出てこず、今回の絵のような怪異をテーマにしたものは探しえなかった。<br />
<br />
まず「三勇士伝」の話であるが、どうやらこの三人の話が世に出たのは江戸末期ごろで、歌舞伎が先で後に歌舞伎を元に脚色された話ではないかと思われる。私が読んだ『森家三勇士伝』はだいぶ時代が下がってしまった本であったため浮世絵が描かれた時代の森三勇士の話とは多少違っていると思う。先に成立した『俊傑森三勇士伝』の絵では確かに古寺において三人は妖怪退治をしているし、明治に入って30年も経たら、もしかしたら江戸時代より妖怪とかの話も信じられな(相手されなく)なっていたのかもしれない。またこの『森家三勇士伝』は「速記」と「口述」に別れており、講談がこの頃全盛期を迎え多く講談本が出版されており、この『森家三勇士伝』もその一つである。講談は張扇と釈台をつかい、古典文学の話をする。つまり、この浮世絵は確かに妖怪がいて、三人が退治をした話をモチーフにしたかもしれないと同時に、図録の説明にもあるように、この絵は不破が名古屋を怖がらせようとした絵であると述べており、『森家三勇士伝』の話とも通じる所がある。元の話が確かに妖怪を退治したのか、妖怪がいなかったのかは、まだ調べがつかなかった。<br />
<br />
舞台において不破名古屋をテーマにした作品は、それが始めて上演された天和三年頃以降、多く浄瑠璃や歌舞伎が上演されてきた。この絵が描かれた頃の脚本は、文久四年(元治元年)花街燕比貌稲妻であり、浮世絵の画題もこれに則ったものが多くあった。慶応に入ると、三年に成立した喜九字当機成台をテーマにした絵がいくつか描かれていた。<br />
<br />
さて、ではなぜこの二人が歌舞伎で色男として登場し対立する場面が描かれるようになったのだろうか。<br />
<br />
まず山三であるが、死亡年月が1603年であるにも関らず阿国との夫婦説が「かぶきの草子」で描かれていたり、歌舞伎の祖とされたりすること、また色男で伊達男であった事から、歌舞伎の登場人物として採用されたのではないかと思う。一方不破であるが、『太閤記』が成立したのが1626年であり、すぐに「遊女論」が成立していたことから、どうやら当時出版され流行したであろう『太閤記』から同様に色男である不破をひっぱってきて、登場人物として山三と対立させたのではないだろうかとうかがわれる。そして今日まで「鞘当」の場面は残っている。<br />
<br />
ではこの画であるが、「名古屋」「高木」と三人で怪異の正体を見極めに行ったとある。『参会名古屋』において不破は、護国のため悪霊をはらっていたとあるから、妖怪退治と不破は繋がりのあるテーマではないだろうか。また、不破のいでたちは確かに稲妻の文様入りの着物で大小を下げているにも関らず、深編笠ではなく唐傘を差し雨が降っている。傘に雨、これに燕が加われば、名古屋山三の衣装である。深く読みすぎてなければ、この画の中に山三のテーマも含まれているのかと思われる。<br />
<br />
この画が描かれた慶応一年ごろは、歌舞伎において「不破名古屋」のテーマが確立して百年あまり経っているにも関らず多くの浮世絵や脚本が書かれていることから「不破名古屋」は流行に関係なく、ひとつの確立したテーマとして描かれてきたのではないかと思う。そしてこの有名なテーマから、多くの勇士伝が生まれていったのではないかと思う。<br />
<br />
<br />
<br />
----<br />
<参考文献><br />
<br />
歌舞伎登場人物事典 2006年 白水社<br />
<br />
日本奇談逸話伝説大事典 1994年 勉誠社<br />
<br />
新訂増補 歌舞伎人名事典 2002年 株式会社紀伊国屋書店<br />
<br />
太閤記 1996年 株式会社岩波書店<br />
<br />
歌舞伎・浄瑠璃外題事典 1991年 株式会社紀伊国屋書店<br />
<br />
原色浮世絵大百科事典 大修館書店 1981.11<br />
<br />
講談協会オフィシャルサイト http://kodankyokai.com/about.html<br />
<br />
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