ArcUP0478

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総合

「恋合 端唄づくし あさがほ 阿曽次郎」

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画題:「恋合 端唄づくし あさがほ 阿曽次郎」

絵師:三代目 豊国 落款印章:任好 豊国画(年玉枠) 彫師:一

出版地:江戸

版元名:笹屋 又兵衛

上演年月日:万延01(1860)・07 上演場所:江戸

配役:阿曽次郎→三代目 市川市蔵、深雪(朝顔)→三代目 沢村田之助


・翻刻

宇治は茶所さまざまの中に噂の 大吉山と人の気にあう水にあふ いろも香もあるすいたどうしいきな うきよにやぼらしい こちゃこちゃこちゃの なかじゃいな

あさがおのつるべとられて ものおもい人の心と淀のみず はやあけちかきとばの船もやいはなれしつたかづら 声もやさしき 田うえうた

題材:「生写朝顔日記」

・梗概

芸州岸戸の家臣秋月家の息女深雪は、宇治の蛍狩りで出会った宮城阿曽次郎を見染めたが、生き別れとなる。のちに深雪は親のすすめた縁談の相手駒沢次郎左衛門が、改名した阿曽次郎とも知らず、阿曽次郎を慕って家出する。恋する男を求めて流浪するうち盲目となっても、阿曽次郎の行方を尋ね続ける。阿曽次郎は、公用で江戸へ向かうが、同輩岩代多喜太が、意地悪な目を光らせている。島田の宿で、阿曽次郎は盲目の女芸人をよんで琴を弾かせ、偶然その女が朝顔と名乗るようになった深雪であることが分かる。だが阿曽次郎は、この同輩の手前もあって名乗ることができないまま出立する。阿曽次郎が残していった品々から、恋い焦がれた男と知って、朝顔は狂気のごとく阿曽次郎の後を追った。しかし、朝顔は大井川の川止めにあい悲嘆のあまり死のうとするが、阿曽次郎の残していった薬で両眼が明らかになり、なおも阿曽次郎を慕っていくのであった。


・登場人物

・宮城阿曽次郎


儒者宮城阿曽次郎は宇治川で蛍狩りをした際、秋月弓乃助の娘深雪に心惹かれ「露のひぬまの朝顔に…」の和歌を書いた扇を手渡す。その後駒沢次郎左衛門と改名した阿曽次郎と深雪の間に縁談が起きたが、同一人と知らない深雪はこれを嫌い、阿曽次郎を慕って家出。大内家の騒動に心を痛める阿曽次郎は、島田宿の戎屋で朝顔となった深雪が「霧の…」を歌う声から彼女に気づくが、同宿の岩代多喜太らに気遣って名乗ることができないまま別れる。のちに御家騒動も解決し、二人は晴れて結ばれる。


・深雪


芸州岸戸家の家老秋月弓乃助の娘深雪は、宇治の蛍狩りで若き儒者宮城阿曽次郎と恋仲となり、阿曽次郎は深雪の扇に朝顔の歌を書く。二人は明石の浦で再会するが、船が離ればなれとなり、積もる嘆きに目を泣き潰した深雪は、ごぜとなって朝顔の唄を唄いながら、阿曽次郎の跡を慕い、東海道をさ迷う。島田の宿で、今は大内家の重臣駒沢次郎左衛門と名を改めた阿曽次郎とめぐり会うが、盲目の深雪は知らずに駒沢の前で琴を弾いて身の上を語る。駒沢が残していった扇の一筆からそれと知った深雪は、狂気のごとく跡を追うが大井川の川止めにあう。


・配役

宮城阿曽次郎

・三代目 市川市蔵

1833-1865。二代目尾上多見蔵の次男。兄に尾上松鶴がいる。初め尾上市蔵と名乗るが、母が初代市川 十郎であったことから絶えていた名跡の市川市蔵を襲名して三代目を名乗り、1937年秋大坂座摩の宮芝居に兄と共に初舞台を踏む。1853年9月大坂角の芝居「妹背門松」などに安徳天皇・義経・重忠・久松の4役で勤め、父も同座して大好評だった。1857年兄と共に江戸へ下り、2月森田座で大好評・大人気を博す。その後江戸にとどまること7年にして、1864年上方に戻り、8月角の芝居で大評判。その後病気となり1865年3月死去。大兵で男振りがよく、立役・敵役・女方を兼ねた。


深雪(朝顔)

・三代目 沢村田乃助

1845-1878。5代目沢村宗十郎の次男。兄に4代目助高屋高助がいる。初め沢村由次郎と名乗り1849年7月江戸中村座「忠臣蔵」8段目道行「千種花旅路嫁入」に子役として遠見の小浪役で初舞台を踏む。1850年11月父5代目宗十郎が没す。1859年正月中村座「魁道中双六曽我」で3代目沢村田之助を襲名し弥生姫とお柚の2役。1860年正月守田座「百千鳥賑曽我」に立女方として粧姫と一重の2役。1861年2月中村座「御国松曽我中村」と市村座に掛け持ちで勤め大好評を得る。このころ、田之助髷・田之助襟・田之助下駄が大流行する。1872年正月村山座「国姓爺姿写真鏡」に古今役で出演後引退する。



歌川派

 江戸中期から末期へかけての浮世絵界にあって、当初は新興画派のひとつであった歌川派が、次第に伸長の兆しを見せ、やがて飛躍的にその勢力分布を拡大して、幕末から明治中期には、浮世絵画壇のほとんどを席巻するにいたる、その進展の軌跡には目をみはらされるものがある。  この派は歌川豊春が明和(1764~72)末年に開いた。そして彼が安永(1772~81)、天明(1781~89)と制作を続ける途次にあって、明和・安永期に盛行した美人画の北尾派と役者絵の勝川派が、やがて天明期の鳥居清長が創始した美人画・役者絵の新風の大流行の前に退き、その清長も次いで出る寛政期(1789~1801)の喜多川歌麿の独創的な美人画に席を譲る。この歌麿に対抗するように鳥文斎栄之が独自の美人画を発表し、寛政中期には、葛飾北斎も新味ある画風で加わってくる。こういう情勢下に、豊春の門に豊国と豊広が出て、そのうち豊国がまず寛政中期に、柔軟性を帯びた新しいスタイルの役者絵を精力的に発表して急浮上する。次いで豊広もまた、堅実な画調の美人画で活躍の地歩を占め、このあたりから歌川派の基盤は固まってくる。そして文化年間(1804~18)前後に前述の著名な絵師たちが、北斎を除いて死没あるいは引退し、豊国のみが時代への適応性と融通性の才を発揮して大衆向きに独走のかたちをとり、多数の優秀な弟子とともに、歌川王国を形成する。弟子の国政、国直、国安、国丸、そして二代豊国になる豊重、さらに国貞、国芳、また真面目な画風で一方の雄を成していた豊広の門から出た広重、この人たちがよくこの情勢を保持し、浮世絵画壇独占の観を呈する。


作品について

 司馬芝叟(しばしそう)の長話(ながばなし)『蕣』(あさがお)というのが原作。それを元にして奈河春助(ながわはるすけ)という人が『けいせい筑紫のつまごと』という脚本を書いて歌舞伎で上演した。その後、山田案山子(近松徳三)という人が浄瑠璃にした。しかし、未完成のうちに亡くなってしまった。近松徳三という人は「伊勢音頭恋寝刃」の作者でもある。その遺稿を翠松園(すいしょうえん)の主人と名乗る人が増補して完成。原題は『生写朝顔日記』だったが、6文字なので奇数にするため、『生写朝顔話』となった。初演は天保3年(1832年)稲荷座。この作品は、『生写朝顔日記』の「宇治のだん」のシーンであると考えられる。阿曽次郎、深雪という登場人物から、題材が『生写朝顔日記』であることが読み取れる。


・生写朝顔話

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浄瑠璃としての初演は天保三年一月二日の稲荷座であった。浄瑠璃はものものしい大内館で、御家騒動の形ではじまり、忠臣駒沢了庵の甥宮城阿曽次郎の紹介がされる。勘当された了庵の子の祥一郎が松原の段であらわれ、次が宇治の蛍狩である。この場面は、宇治川の上に屋形船と小舟を浮かべ、阿曽次郎と秋月弓之助の娘深雪の出会いを描いた場面で、いかにも江戸の読み本を思わせる典型的な美男美女の物語になっている。ここで扇と短冊を交換する。


・阿曽次郎→深雪

「露の乾ぬまの朝顔を照す日蔭のつれなきに、哀れ一むら雨のはらはらと降れかし」


・深雪→阿曽次郎

阿曽次郎の詠んだうたを琴にのせてうたった。


物語と絵の関連

阿曽次郎が右手に筆を持っていることから、深雪の扇に歌を詠んでいる最中だということが分かる。宇治川の蛍狩、屋形船の上で出会った阿曽次郎と深雪がお互い見染め合っていることが、二人の距離感、体の向きからわかる。深雪は口に手を当て上品に笑う。また、阿曽次郎に対しての照れ隠しとも読み取れる。深雪の衣に朝顔の絵が描かれている。阿曽次郎はこの朝顔を深雪に見たてて歌を詠んだのではないだろうか。







〈引用・参考文献〉

・「歌舞伎人名事典」 紀伊国屋書店 2002.06.25

・「歌舞伎登場人物事典」 白水社 2006.05.10

・「演劇百科大事典1」 平凡社 昭和35年3月30日

・「歌舞伎名作辞典」 演劇出版社 平成8年8月10日

・ARC浮世絵検索システム http://www.dh-jac.net/db/arcnishikie/searchp.htm