012-0509

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総合

東海道五十三対 戸塚


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【翻刻】

かまくらを出る鰹につれたちて やほないなかになく郭公

絵師:広重


【題材】

鰹と郭公という言葉で有名な句に「目には青葉 山郭公 初鰹」という句がある。この句は、江戸時代前期の俳人である山口素堂の作で、延宝六年(1678)の『江戸新道』に収録されている。初夏の風物として、ホトトギスと青葉は古くから歌人によってしばしば取り上げられてきたが、この句では詞書に「鎌倉にて」とあり、鎌倉の名物である初鰹を更に登場させるところにこの句の面白さがある。初夏の季語を羅列するだけという奇抜な句法と軽快なリズムが、当時の人々の好みに合い人気を呼んだ。「鎌倉を出る鰹につれだちてやぼないなかになく郭公」という歌は、上記の句を踏まえて詠われたものだと考えられる。


【戸塚宿】

戸塚宿は東海道の五番目の宿にあたり、現在の神奈川県横浜市戸塚区に位置する。江戸時代は相模国鎌倉郡に属していた。現在の鎌倉市へ向かう鎌倉街道が戸塚宿から東へ交差するように通っていた。


【鎌倉の漁業】

鎌倉を鰹が出て行くとはどういうことなのか、江戸時代の相模湾における魚介類の流通の仕組みから考えていきたい。

⑴近世前期

 近世以前の江戸湾や相模湾では、漁業は主に御菜魚と言われる租税を納めるために行われてきた。しかし、徳川家康が江戸に幕府を開くと江戸の人口は急激に増加し、それに伴い、参勤交代により江戸での生活を強いられた大名や、江戸に集中してくる商人や職人の生鮮魚介類への需要が急激に増加した。そのような需要の増加に対応するために、江戸日本橋に魚問屋が集中し大規模な魚市場が形成された。始めは、幕府に設定された江戸湾内の八つの浦が「御菜八か浦」と呼ばれ、江戸城の生活物資としての鮮魚や、江戸市中の需要に責任を持って対応していた。しかし、江戸市中の需要が増加するにつれ、江戸湾内から相模湾にかけての漁村も日本橋の魚市場に漁獲物を送るようになった。とはいっても、この頃の鎌倉の漁村ではまだ、すべての漁獲物が江戸へ送られるわけではなく、東海道の各宿へも供給も行われていた。

⑵新肴場の誕生

 江戸幕府は、人々がいつでも必要な商品が売買できる体制の整備によって安定した商品流通を維持し、江戸の安定した経営を望んでいた。そして、その要求に対応するのが日本橋の御用魚問屋の役割であった。このような魚問屋は、相模沿岸漁村の漁業者に対して新造船から漁具に至る仕込み資金を貸し付け、その代わりとして問屋へ全面的に荷送りさせる方法をとり、これによって漁村には問屋の強い規制力が働いていた。このような規制力を背景に、問屋は相模沿岸の漁村から送られてくる魚介類に対して高率の売買税を要求した。これに対して十七の浦の漁民が、日本橋の魚問屋を相手取り、売買税の引き下げを求めて勘定奉行へ訴え出た。しかし、魚問屋は漁民の要求には応じなかった。その結果、勘定奉行は、この十七の浦の漁民が、どこでも新規に魚問屋を取り立てて、勝手に魚介類を送ってもよいという裁決を下した。ところが、十七の浦は魚問屋に対して借金がありそれを返済しなければならなかった。そこで、日本橋本材木町に住む家持が幕府から六千両を借り、それを魚問屋への返済資金や新魚問屋の設営資金にあて、本材木町に新たに魚市場が開設された。これを新肴場という。これに対し、勘定奉行所は代官を通じて、十七の浦へお触れを掲示する立札を立てた。その内容は、各浦で取れた魚介はすべて新肴場へ送り、諸国の漁師が各浦で漁獲した者も同様とし、海上船中では一切売ってはならないという禁止事項で、違反者には罪科を以ってのぞむという厳しいものだった。『鎌倉市史 近世資料1』の中の元禄七年の「相模・武蔵三十一ヶ浦新肴場へ魚類附送りにつき請書」という資料にも「其浦々にて取候魚類他国より漁獲いたすもの共に、如前々江戸材木町新肴場江不残相届商買すへし、小田原其外之町江は一切付送間鋪、附り、海上船中におゐて魚類売へからさる事」とある。このように全漁獲物を新肴場へ送ることを義務付けられた漁村を、新肴場付浦という。このような新肴場が設立されたのには、増大する江戸の魚介類に対する需要を確保するために、近海の漁港を、流通機構を通じて把握する体制を整えようとする幕府の意図があったと考えられる。

⑶鎌倉の漁村

 後に新肴場の付浦は徐々に増加し、延宝七年(1679年)には鎌倉郡の五つの浦を含む六か浦が新肴場付浦に繰り入れられた。これらの鎌倉の漁村はこれまで、他国の漁師や浦を望む商人などの他者からの侵害を排除することで、旧来からの漁業権を守り、また、近隣の宿などの方々への自由な売買を行ってきた。しかし、新肴場の商人は、この鎌倉の六か浦に対して、幕府への上納により鎌倉の漁村における他国の漁師による漁を許可させるという威しをかけた。さらに、六か浦が日本橋の旧来の魚問屋から受け取っていた前借り金の返済を立て替えることによって、やむなく鎌倉の六か浦は新肴場の付浦として指定されることになった。その後、新肴場の幕府への借金の返済が完了し、鎌倉六か浦の旧魚問屋からの前借り金の返済も済んだ。しかし、幕府への魚介類の供給に支障が出るという理由で、鎌倉の六か浦が新肴場の付浦から除外されることはなく、明治四年の付浦制度廃止まで解放されることはなかった。

 各漁村が新肴場の付浦に指定されることで被る不利益は、『鎌倉市史 近世通史編』によると、以下の三点にまとめられる。第一に、決まった問屋にしか販売できないことから、生産者側は値段を買いたたかれること。第二に、鎌倉六か浦から新肴場までは、陸路で十三、四里、海路で三十里余もあるため、運送費用が多額になること。第三に、大暑や風雨の日、あるいは半端な漁獲物は近くの在所で売り払うことがあるが、そのようなとき、新肴場から来た浦廻りの者が必要以上に厳しく取り締まること。以上のため、漁村が非常に困窮してしまう。

 新肴場の付浦が、魚介の流通においてどのくらい規制されていたかは、脇売りや抜き売りの発生とその取締りから知ることができる。漁村から日本橋への魚介類の運送は、漁村での仲買が漁業生産者と問屋の間に入ることで行われた。このような仲買を五十集という。運送手段としては、船足の速い押送船が利用された。このように、船主―五十集―指定の魚問屋というルートで流通していれば問題ないが、このルートを外れた流通が行われると、脇売り、抜き売りの発生となる。このような、脇売り、抜き売りを行う商人の代表的なものが棒手商人である。棒手商人は漁師から買った魚を地元の路上や市場で売りさばいたが、問屋の付浦見廻りの者に取り押さえられ、棒手商人から出された詫び状が多く残っている。このように新肴場の問屋は、魚介類が自らの問屋に販売される正規のルートを外れた流通を厳しく監視した。また棒手商人は、魚介類の集荷体制が問屋の思うままに行われ、魚介類が江戸にだけ集中し、地元の宿では江戸から逆に魚介類を仕入れなければならないという現実に対する反撃であったと考えられる。


【考察】

 この絵には、女性が一人描かれているだけで他の人物は描かれていない。背景も、非常に簡素に描かれていて、空にホトトギスが描かれている以外は特筆されるものはない。他の戸塚の絵のように宿場が賑わっている様子は描かれていないのが特徴である。これは、上の歌の通りに、江戸にとって代わられた鎌倉を、「やぼないなか」としてなるべく質素に描いたからではないだろうか。

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 鰹は、『徒然草』の第百十九段に、「鎌倉の海に、かつをといふ魚は、かの境ひには、さうなきものにて、このごろもてなすものなり。それも、鎌倉の年よりの申し侍りしは、「この魚、おのれら若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づること侍らざりき。頭は下部も食はず、切りて捨て侍りしものなり」と申しき。かようの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ。」と見られるように、鎌倉時代に鎌倉で食べられるようになった。

 しかし、以上見てきたように、江戸時代では、鎌倉の漁村で獲れた魚介類はほとんど強制的に江戸へ送られていた。特に鎌倉名物である鰹は、寛政七年(一七九五)の『譚海』の中に、「毎年三月下旬四月初めのころ、はじめて鰹を猟し得るなり、江戸の富豪のもの一日もはやく調理に入るを、口腹の第一と称美する事なり」とあるように、江戸の人々に特に好まれ、また、江戸湾では鰹漁が行われなかったこともあって、特に厳しく、早い時期から江戸へ送られていた。

 このように、幕府の所在が鎌倉から江戸へ移ったことにより、かつて幕府として栄えた鎌倉は「やぼないなか」に成り下がってしまった。この浮世絵は、鎌倉名物である鰹の江戸への流出を例として、できるだけ簡素に鎌倉を描くことによって、変化してしまった鎌倉の侘しさや物悲しさを表現していると考えられる。



〈参考文献〉

『浮世絵事典』吉田暎二、画文堂、1990年

『新潮日本古典集成 徒然草』木藤才蔵、新潮社、1977年

『新編俳句の解釈と鑑賞事典』尾形仂、笠間書院、2000年

『俳句辞典 鑑賞』松尾靖秋、桜楓社、1981年

『譚海』津村正恭・國書刊行會編、國書刊行會、1917年

『神奈川県史 通史編3近世2』神奈川県企画調査部、神奈川県、1970年

『鎌倉市史 近世通史編』鎌倉市史編纂委員会、吉川弘文堂、1985年

『鎌倉市史 近世史料編第一』鎌倉市史編纂委員会、吉川弘文堂、1985年

『日本歴史地名大系14 神奈川県の地名』平凡社地方資料センター、平凡社、1984年

『東海道五十三次 保栄堂版』吉田漱解説、集英社、1994年