馬祖

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ばそ


画題

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解説

画題辞典

馬祖道一に臨済の名家なり。支那漢洲什邡の人。容貌甚だ奇にして牛の如く歩み、虎の如く見え。舌を引く時は鼻を過ぎ、足下に二輸の文ありといふ。幼にして資州の唐和筒に就きて薙髪し渝州の円律師に戒品を受け、開元年中衡嶽の伝法院に於て禅を修し、南康の襲公山に居り法道大に行はれ馬祖と総せらる。行化常なかりしも代宗の大歴中には洪都の開元寺に在り、名声大に揚り、弟子四集し、四方より学者亦輻湊し、法席甚だ盛なり。好んで大喝を喰にす。徳宗の貞元四年正月建昌の石門山に登り、林中を往来こ洞壑の不坦の所を見、侍者を顧み吾れの朽質は来月此地に托すべしと告ぐ。翌二月四日八十の高齢を以て珈跌入滅す。京都天寧寺に愚極賛馬祖問答の元画一幅あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

支那唐代の禅僧、姓は馬氏、漢州什邡県の人、幼にして資州唐和尚に就いて落髪し、渝州円律師に就いて受具す、開元年中南嶽懐譲に参じて其の印記を受け、次で清源行思に謁す、初め建陽の仏跡嶺に遊び、尋で撫州臨川に到り、南康襲公の二山に住し郡守裴通の帰崇を受く、大歴中勅を受けて洪州開元寺に住し、居ること十年、連帥路嗣恭の崇敬を受くること深く、こゝに於て門下大に振ひ、南嶽の石頭と相対峙して天下禅林の標準となる、貞元四年二月四日入寂、年八十、弟子一百三十人、各々一方の宗主となり法嗣天下に布き、馬祖と称せらる。  (日本百科大辞典)

京都の天寧寺に愚極馬祖問答の一幅がある。外に、雪舟筆馬祖、黄檗、百丈(百丈禅師)の三幅対が川崎男爵家旧蔵にある。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)